メキシコ大統領が改憲案提出、選挙への「追い風」にしたいとの思惑か

~年金給付水準の大幅引き上げは財政悪化を招く懸念、ペソ相場に想定外の悪影響を与える可能性も~

西濵 徹

要旨
  • メキシコでは6月に大統領選と議会上下院選が実施される。現行憲法では現職のロペス=オブラドール氏は出馬出来ないなか、大統領選は与野党双方の女性候補による事実上の一騎打ちとなっている。世論調査では与党候補が優勢だが、与党連合は議会上下院で憲法改正に必要な議席を満たさず、改憲が日常茶飯事のなかでも現政権が提出した改憲案が否決されるなどハードルとなる状況が続く。こうしたなか、ロペス=オブラドール大統領は憲法記念日の5日に新たな改憲案を公表し、年金制度を巡って給付水準を現役時代並みに引き上げる方針を明らかにした。ただし、仮にこれが実現すれば財政状況が急激に悪化することは必至であり、緊縮財政を謳う他の内容と齟齬を来す可能性がある。他方、中銀の慎重姿勢を反映して通貨ペソ相場は堅調に推移するが、当面は政局の動きや米大統領選の影響に注意する必要があろう。

メキシコでは、6月2日に大統領選挙と議会上下院の選挙が予定されている。現行憲法(1917年憲法)では大統領任期は1期6年のみと規定されており、現職のロペス=オブラドール(AMLO)大統領は出馬することが出来ず、その行方に注目が集まった。こうしたなか、現政権を支える与党の左派MORENA(国民再生運動)はロペス=オブラドール氏の腹心のひとりで首都メキシコシティの市長を務めたシェインバウム氏を公認候補としている。他方、最大野党の中道右派PAN(国民行動党)と中道右派PRI(制度的革命党)、中道左派PRD(民主革命党)の3党は連立を結成した上で、PAN所属のガルベス上院議員を統一の公認候補としている。大統領選には両者以外にも中道左派MC(市民運動)からガルシア下院議員、独立系候補で俳優のベラステギ氏も立候補するなど4人による選挙戦が展開されている。しかし、世論調査ではシェインバウム氏が一貫してトップを走るなかでガルベス氏が追走する展開が続いており、与野党がともに女性の候補者を擁立するなかで事実上の一騎打ちの様相を呈している(注1)。なお、現政権は国家資本主義を前面に押し出す保守色の強い経済政策を標ぼうする一方、社会政策を巡っては様々な給付金の実施のほか、大統領選を意識して過去3年連続で最低賃金を大幅に引き上げるとともに、企業に対して年金負担の増額を求めるなど左派色の強い『反ビジネス』的な政策を推進してきた。結果、経済界を中心に現政権に対する拒否感は根強いとされる一方、国民の半分以上を低所得者層や貧困層が占めるとされるなかで現政権に対する支持率は依然として6割を上回るなど高水準で推移している。現政権への支持率の高さはそのままシェインバウム氏に対する支持率の高さに繋がっているとみられる上、同氏も選挙戦を通じて『AMLO路線』の継続を訴えるなど反ビジネス色の強い政策運営を図る可能性は高いと見込まれる。一方、1917年憲法を巡っては、制定から100年超を経てこれまで数百回もの改正が実施されるなどOECD(経済開発協力機構)加盟国のなかで同国は最も頻繁に憲法改正が行われているとされるものの、議会上下院双方でMORENAやPT(労働党)を中心とする与党連合(共に歴史を作ろう(JHH))は多数派を形成しているものの、現時点においては上下院ともに憲法改正に必要な3分の2を満たない状況にある。事実、ロペス=オブラドール政権が2021年に議会下院に提出した電力セクターの再国有化を規定した憲法改正案は翌22年に否決されており、憲法改正を通じた政策遂行のハードルとなる状況が鮮明になっている。こうしたなか、MORENAは大統領選と同時に実施される議会上下院選挙において議会上下院双方で憲法改正必要な議席数の奪還を目指す姿勢を明確にしており、ロペス=オブラドール氏は憲法記念日である5日に新たな憲法改正案を公表するとともに、大統領選や上下院選挙に向けた『選挙公約』の土台とする方針を明らかにした。憲法改正案は司法制度や選挙制度、年金制度、財政制度、環境規制など計20項目を対象としており、なかでも年金制度改革を巡っては予てより給付水準が現役時代の半分程度に留まることをも問題視する考えを示してきたことを反映して、給付水準を現役時代並みに引き上げるとしている。具体的には、5月にも640億ペソ(GDP比0.2%)規模の基金を創設して給付水準を引き上げるほか、不足分については政府が負担するとする一方、その財源については明確にしないなど歳出増大に繋がることが予想される。なお、新たな憲法改正案では財政制度を巡って緊縮財政を謳う内容も含まれており、仮に年金拡充に向けた動きが具現化されればその実現性が大きく後退することも考えられる。また、昨年以降の同国ではインフレが鈍化するなか、同様にインフレが鈍化している中南米諸国では利下げに動く流れが広がっているが、中銀はインフレ再燃リスクを警戒して利下げに慎重な姿勢を維持しており(注2)、財政悪化に繋がる動きは一段と中銀の政策運営の手足を縛ることも懸念される。金融市場においては中銀が慎重姿勢を維持していることを反映して実質金利(政策金利-インフレ率)のプラス幅が拡大するなど、投資妙味が向上していることを追い風に通貨ペソ相場は堅調な推移をみせており、当面はそうした傾向が続く可能性は高いと見込まれる。しかし、政局の行方に加えて、隣国の米大統領選の行方如何では再び同国に対する『圧力』が強まる可能性もくすぶるなど、当面は不透明要因が高まるリスクに注意する必要があろう。

図1 公的債務残高の推移
図1 公的債務残高の推移

図2 ペソ相場(対ドル)の推移
図2 ペソ相場(対ドル)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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