チリ、新憲法草案を問う国民投票は「急進的内容」が忌避され否決

~ボリッチ政権は発足半年足らずながら早くも試練、デモ再燃も懸念されるなど厳しい状況は不可避~

西濵 徹

要旨
  • 南米チリでは4日に新憲法草案の承認の可否を問う国民投票が行われた。同国では、2019年の反政府デモをきっかけに改憲を通じた政治体制の転換を求める動きが強まった。2020年の制憲議会選では反体制派が半数を上回り、新自由主義的な政策運営を後押しする現行憲法の大幅改定が不可避となり、昨年の大統領選では左派のボリッチ氏が勝利して左派政権への転換が進んだ。他方、足下の同国は物価高と金利高の共存が景気に冷や水を浴びせる懸念が高まり、政権発足早々から支持率は急落するなど厳しい状況に直面してきた。また、急進的な新憲法草案に世論調査で根強い拒否感が示されるなど、その行方は不透明であった。国民投票では6割以上が反対票を投じるなど、保守派のみならず中間派も反対に回った模様だ。ボリッチ政権は発足から半年足らずだが、反発が強まるなど厳しい状況となることは避けられそうにない。

南米チリでは4日、新憲法草案の承認の可否を問う国民投票が実施された。同国を巡っては、中南米諸国のなかでも1人当たりGDPの水準が比較的高く(2021年時点で14,322ドル)、2010年にいわゆる『先進国クラブ』であるOECD(経済開発協力機構)に加盟するなど、域内でも政治及び経済の両面で安定しているなど『中南米の優等生』と称されることも少なくなかった。他方、1981年に発効した現行憲法を巡っては、1973年の軍事クーデターを経て誕生したピノチェト元政権下で制定されたものであり、新自由主義的な経済政策を志向する同政権の姿勢が強く反映された内容となっている。結果、現行憲法では国家の義務に関する記述が少なく、新自由主義的な経済政策の下で社会保障や教育なども民営化が進められたことで、国民の間に社会・経済格差が広がる一因になってきたとされる。同国の人口は1,900万人程度と域内では比較的人口規模が小さく、それに伴い経済構造面で輸出依存度が比較的高く、輸出の4割強を銅が占めるなどモノカルチャー的な側面が強いなか、世界経済、なかでも中国経済の動向に左右されやすい。ここ数年は中国の景気減速が同国経済の足かせとなるなか、同国はOECD諸国のなかでジニ係数が極めて高いなど社会・経済格差が大きく、近年の生活費や教育費などの高騰に伴い格差が一段と拡大してきた。加えて足下では世界的な商品市況の上振れによる生活必需品を中心とするインフレも重なり、低所得者層や貧困層を中心に政府及び現行憲法への不満が高まってきた。こうしたなか、2019年に当時のピニェラ前政権による財政健全化を目的とする地下鉄料金引き上げをきっかけに反政府デモが発生し、その後は賃金及び年金の引き上げのほか、教育費や医療費の軽減、電気料金をはじめとする公共料金の安定化を求めるデモに発展した。さらに、ピニェラ前政権が反政府デモの鎮圧を目的に軍を動員する強硬策に動いたことを受けて、その後の反政府デモは現行憲法の改正を要求するなど政治体制の転換を求める動きに発展した。なお、その後にピニェラ前政権は反政府デモ側の要求に応える形で新憲法の制定に向けた取り組みを進めることで合意し、2020年10月には新憲法制定の是非を問う国民投票が実施され、8割弱が新憲法制定に賛成したことで改憲議論が前進した(注1)。さらに、昨年実施された新憲法案を討議する制憲議会選挙では、ピニェラ前政権を支える中道右派が少数派となる一方、左派や反体制派のほか、無所属議員が多数派となったことから、新憲法は現行憲法とは180度異なる急進的な内容となる可能性が高まった(注2)。さらに、昨年12月に実施された大統領選(決選投票)では、制憲議会選で大躍進を果たした左派連合が推した学生運動出身で左派・社会融合党の下院(代議院)議員であったガブリエル・ボリッチ氏が勝利し(注3)、今年3月にボリッチ氏が大統領に就任して左派政権が誕生した。ボリッチ政権を巡っては、大統領選を通じて急進的な政策に舵を切ることが懸念される一方、終盤に向けては中間派の取り込みを目指して主張のトーンを抑える動きをみせたことから、具体的にどのような政権運営が行われるかに注目が集まった。なお、足下の同国経済は4-6月の実質GDPがコロナ禍の影響が及ぶ直前の2020年1-3月と比較して+8.7%上回るなどマクロ的にはコロナ禍の影響を克服したと捉えられる一方、景気回復に加えてこのところの幅広い商品市況の上振れを受けて食料品やエネルギーなど生活必需品を中心にインフレ圧力が強まっている。また、国際金融市場では米FRB(連邦準備制度理事会)など主要国中銀のタカ派傾斜を受け、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)が脆弱な新興国で資金流出が強まるなか、世界経済、なかでも中国経済の減速懸念による主力の輸出財である銅価格の低迷も重なり、通貨ペソ相場は7月半ばに最安値を更新するなど輸入物価を通じたインフレ昂進が懸念される状況にある。こうした事態を受けて、中銀は昨年後半以降断続的な利上げに動いており、物価高と金利高の共存が景気に冷や水を浴びせる懸念が高まるなか、ボリッチ政権は一時金の支給や出産直後の母親への手当延長、正規雇用者数の拡大計画などの財政支援を発表したものの、政権支持率は急低下するなど発足早々から厳しい状況に直面した(注4)。今年7月に制憲議会が政府に提出した新憲法草案では、国による医療や教育の保障強化のほか、ジェンダー平等や先住民の権利強化、環境保護を目的に鉱業などの活動制限を求めるなどの内容が盛り込まれるなど、現行憲法からの大転換が企図された。他方、政権支持率の急落も相俟って世論調査では反対が半数を上回るなど、その行方は極めて不透明であった。こうしたなか、新憲法草案に対する国民投票では現地報道に拠れば6割以上が反対票を投じたとされ、賛成派は正式に敗北を認めており、急進的な内容を巡って保守派のみならず、中間派も反対に回ったと考えられる。ボリッチ氏はこの結果を受けて「改憲のプロセスを前進させるためにあらゆる層の意見を聞きたい」との姿勢をみせたものの、新憲法草案が否決されたことを受けて抗議デモなどを通じて混乱が再燃する可能性も考えられる。足下のペソ相場を巡っては、7月中旬に記録した最安値から底打ちするなど落ち着きを取り戻す動きがみられるものの、足下の国際金融市場では米FRBのQT(量的引き締め)加速や大幅利上げが意識されるなど新興国を取り巻く状況は一段と厳しさを増している。さらに、昨年後半以降におけるペソ安の動きに呼応するように外貨準備高は減少に転じている上、足下ではIMF(国際通貨基金)が国際金融市場の動揺に対する耐性の有無を示す『適正水準評価(ARA:Assessing Reserve Adequacy)』も適正水準を下回るなど、金融市場の動揺への耐性は急速に低下している。ボリッチ政権にとっては、新憲法草案の否決も重なり逆風が強まることは避けられないと見込まれる。

図表1
図表1

図表2
図表2

図表3
図表3

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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