チリ、物価高と金利高に「ドクター・カッパー」も、左派政権は船出から難局に直面

~金融市場の動揺への耐性も乏しいなか、改憲案の行方も見通せず不透明要因は山積~

西濵 徹

要旨
  • 南米チリでは昨年12月の大統領選(決選投票)を経て、左派のボリッチ政権が誕生した。同国では新自由主義的な政策運営が行われてきたが、金融市場においては左派政権の誕生による政策転換の行方に注目が集まる。他方、全方位外交によるワクチン接種も追い風に同国経済はコロナ禍の克服が進んだが、昨年来の商品高によりインフレが加速しており、中銀は断続的に利上げ実施に動くも、インフレ収束の見通しが立たない。物価高と金利高が共存するなか、世界経済の不透明感による銅価格の調整も重なり通貨ペソ相場は最安値を更新してインフレ要因となっている。政府は物価対策に動くも財政状況に配慮する姿勢をみせるが、税制改正による経済活動への悪影響が懸念される。改憲案については、国民の半数以上が経済活動の制限を懸念して反対するなど国民投票の行方は不透明であり、政権の求心力に影響を与える可能性もある。外貨準備高も金融市場の動揺への耐性に乏しく、左派政権は船出早々から難局に直面していると言える。

南米チリでは、昨年12月に実施された大統領選(決選投票)において、かつての学生運動のリーダーで左派の社会融合党から出馬したガブリエル・ボリッチ氏が勝利し、3月に同国で史上最年少の36歳の大統領が誕生するとともに、ここ数年中南米諸国に広がっている『左派ドミノ』の動きが同国にも到達した格好である(注1)。この背景には、同国が長期に亘って『小さい政府』を志向する新自由主義的な経済政策の下で高い経済成長を実現する一方、既得権益層に富が集中することで社会経済格差が広がるとともに、教育や医療、年金など社会保障の手薄さを理由に貧困層や低所得者層が極めて厳しい状況に置かれたことが影響している。ボリッチ氏は大統領選を通じて、教育や医療、年金など社会保障の全面的な充実を図る『大きな政府』への転換を経済政策の柱に据えるとともに、財政面ではバラ撒きも辞さないほか、長きに亘って国是としてきた『全方位外交』に基づく自由貿易協定の見直しを主張するなど、様々な政策転換を図る姿勢をみせた。しかし、こうした急進左派的な政策はボリッチ氏が躍進を果たす一助となる一方、中道右派層から警戒感が示されたことを受けて、決選投票に向けては自由貿易協定に関する姿勢のほか、財政運営についても規律を守る姿勢をみせるなどトーンを抑える動きをみせた。なお、金融市場においては同国の通貨ペソ相場は主力の輸出財である銅の国際価格に左右される傾向がある一方、長きに亘って『経済保守の牙城』とされた同国がボリッチ政権の下で如何なる政策転換が図られるかが警戒されるなど慎重な見方が強まった。ただし、同国経済を巡っては全方位外交によるワクチン接種の進展も追い風に経済活動の正常化が優先されたこともあり、今年1-3月の実質GDP(季節調整値)の水準はコロナ禍の影響が及ぶ直前の2019年末時点と比較して10%上回るなど、マクロ的にはコロナ禍の影響を克服していると捉えられる。他方、景気回復が進むとともに、世界経済の回復を追い風とする原油をはじめとする国際商品市況の底入れを受けて昨年以降のインフレ率は中銀の定めるインフレ目標を上回る推移をみせている。こうした事態を受けて、中銀は昨年7月に2年半ぶりとなる利上げ実施に動いたほか、9月、10月、12月と断続的な利上げを実施するとともに、年明け以降も1月、3月、5月、6月と繰り返し利上げを実施しており、足下の政策金利は9.00%と1998年10月以来の水準となっている。このように急進的な利上げによるタカ派傾斜にも拘らず、直近6月のインフレ率は+12.5%、コアインフレ率も同+9.9%とインフレ目標(2±1%)を大きく上回る水準で加速するなど収束の見通しが立たない状況が続いている。さらに、国際金融市場においては世界的なインフレに対応して米FRB(連邦準備制度理事会)など主要国中銀がタカ派傾斜を強めており、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱な新興国に資金流出が集中しやすい環境となるなか、足下では中国経済を巡る不透明感を理由とする銅価格の調整も重なり、通貨ペソ相場は調整して最安値を更新するなど輸入物価に押し上げ圧力が掛かる動きもみられる。他方、こうした物価高と金利高の共存は景気の足かせとなることが懸念されるなか、ボリッチ政権は国民に対する一時金支給や出産直後の母親に対する手当延長、正規雇用者数の拡大プログラムなどをはじめとする財政支援を発表した。一方、政府は今月初めに税制改正案を公表しており、富裕層に対する所得税や大企業を中心とする法人税の増税のほか、鉱業部門に対するロイヤリティー税の導入などを通じてOECD(経済開発協力機構)諸国のなかで税収が突出して低い状況の打開を図るなど、財政状況の過度な悪化を回避する姿勢をみせている。しかし、税制改正案により大企業を中心に活動が妨げられる可能性があるほか、物価高と金利高の共存による景気減速も重なり、先行きの同国経済を取り巻く状況は急速に厳しさが増すことは避けられそうにない。折しも今月4日には新憲法を制定する制憲議会が草案を政府に提出しており、教育や医療の保障に加え、環境保護や先住民の権利強化などを盛り込んだ内容となる一方、直近の世論調査では国民の半数以上が経済活動の制限を懸念して新憲法案に反対するなど、9月に予定される国民投票で採択が可決されるか否かは予断を許さない状況にある。足下の生活必需品を中心とする物価高はボリッチ政権の誕生を後押しした貧困層や低所得者層を直撃しており、仮に対応に手間取れば政権の求心力低下を招くとともに、新憲法の行方に不透明さが増すことも予想される。さらに、足下におけるチリの外貨準備高は過去数年に亘ってIMF(国際通貨基金)が示す『適正』とされる水準を下回るなど国際金融市場の動揺に対する耐性は充分ではなく、世界経済を巡る不透明感は銅価格の動向とともに同国経済にとって逆風となりやすい。その意味では、国民からの大きな期待を背負って誕生したボリッチ政権であるが、その船出は早々から極めて厳しい状況に置かれていると判断出来よう。

図 1 インフレ率の推移
図 1 インフレ率の推移

図 2 ペソ相場(対ドル)の推移
図 2 ペソ相場(対ドル)の推移

図 3 外貨準備高と適正水準評価(ARA)の推移
図 3 外貨準備高と適正水準評価(ARA)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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