タイ・タクシン派政権発足も、親軍派がタクシン氏を「人質」に実権を握るか

~金融市場は政治空白の解消を好感も、政治・経済両面で同国が抱える課題は極めて大きい~

西濵 徹

要旨
  • タイでは、22日に5月の総選挙を経た議会上下院による首班指名選が行われ、タクシン派のタイ貢献党のセター氏が半数を上回る票を得て首相に選出された。タクシン派政権の誕生は2014年のクーデター以来約9年ぶりとなる。与党連立は貢献党を中心とする11党の大連立となり、親軍政党も加わったことで直近の世論調査では国民の6割以上が反対するなど評価は厳しい。また、タクシン元首相はタクシン派政権樹立を確信して帰国、収監されたが、今後は親軍政党がタクシン氏を「人質」に貢献党をけん制することも予想される。貢献党と親軍政党は政策面の親和性は高いが、過去には対立を機にクーデターに発展したことを勘案すれば、今後も同様の事態に陥る可能性はくすぶる。金融市場は政治空白の解消を好感しているが、先行きのあり得るシナリオを勘案すれば、足下の状況を以って楽観視するのは些か早いと捉えられる。

タイでは22日、5月の総選挙(議会下院(人民代表院)総選挙)を経た議会上下院による首班指名選挙が実施され、総選挙において第2党となった『タクシン派』のタイ貢献党のセター・タビシン氏が482票と総投票数(750票:議会下院(500)+議会上院(250))の半数以上を獲得し、新首相に選出された。タクシン派が政権与党の座に返り咲きを果たすのは、2014年に発生した軍事クーデターによって当時のインラック政権が崩壊して以来であり、約9年強ぶりのこととなる。なお、政権樹立に際しては、タイ貢献党を中心とする11党による大連立を組むことで合意したことが後押しする一方、政権与党には総選挙前の与党を構成した親軍政党(国民国家の力党、タイ団結国家建設党)が加わるなど、総選挙に際してタイ貢献党が掲げた「親軍政党とは手を組まない」とした政権公約は反故にされた格好である。今月20日にNIDA(国立開発行政開発研究院)が公表した最新の世論調査では、タイ貢献党と親軍政党などの大連立構想に対して支持は34.58%(断固支持:19.47%、支持:15.11%)に留まる一方、65.50%が反対(断固反対:47.71%、反対:16.79%)となっていることを勘案すれば、新政権に対する国民からの評価は厳しいものとなることは避けられない。この背景には、総選挙において『反軍政』を掲げる民主派の前進党が第1党に、上述のように親軍政党との連立を拒否する姿勢をみせたタイ貢献党が第2党となる一方、政権の中枢を占めた親軍政党は議席を大きく減らす惨敗を喫するなど、民主派が大勝利を収めたことが影響している(注1)。総選挙後には、前進党とタイ貢献党など8党が前進党のピタ党首を首班とする連立形成で合意に至るなど、新政権の樹立を目指した。しかし、保守派や親軍派の間には前進党が掲げる急進的な公約(不敬罪の緩和、徴兵制の廃止など)に対する拒否感が根強く、いわゆる『司法クーデター』とも呼べる動きにより前進党政権発足の芽を摘むとともに、政治空白が長期化する事態となった(注2)。さらに、保守派を中心に『前進党排除』に向けた圧力を強めたことを受けて、タイ貢献党は前進党との連立を解消する一方、中道右派政党などと新たな連立を組むことを明らかにするなど(注3)、タイ貢献党を中心とする政権樹立を模索してきた。そして、最終的に親軍政党との大連立構築により9年強ぶりとなる『タクシン派政権』の樹立に道筋を付けた。他方、タイ貢献党の実質的なオーナーであるタクシン元首相は、タクシン派政権の樹立が確実となったことを受けて計17年間に及ぶ海外亡命生活から帰国し、裁判所での審問を経て汚職、権力濫用などの罪による計8年の刑期を言い渡されるとともに収監されている。タクシン元首相の帰国を巡っては、タイ貢献党が親軍政党との連立合意の背後で長年敵対関係にある軍と身柄保護や恩赦よる刑期短縮に関する『密約』があるとの憶測を呼んでいる。こうしたことも、上述した世論調査において多くの国民が大連立構想に対する拒否感を強める一因になっている可能性がある。また、今後は親軍政党がタクシン元首相を『人質』にする形でタイ貢献党へのけん制を強める可能性は高く、連立合意に際して11党の間で閣僚ポストの割り当てを決定したものの、そのポストを巡って早くも調整が難航している模様である。具体的な政策については、タイ貢献党も親軍政党もともに最低賃金の大幅引き上げ、現金給付の実施といったバラ撒き政策を掲げるなど親和性が高いものの、閣僚ポストを巡る不和を理由にポストを『たらい回し』する観点から頻繁に内閣改造が実施されるなど、政策の一貫性が失われる可能性は高い。また、政策的な親和性こそ高いものの、過去には貧困層からの支持が高いタイ貢献党と、反発する富裕層やエリート層との対立が激化して軍事クーデターに発展したことを勘案すれば、今後の政権運営を巡るタイ貢献党と親軍政党との対立を契機に同様の展開となる可能性はゼロとは言い切れない。金融市場においては、新政権発足による政治空白の終了を好感して調整が続いたバーツ相場は底打ちする動きをみせているが、足下の状況を勘案すれば事態が大きく好転すると判断するのは些か早いのが実情であろう。足下の同国経済は頭打ちの動きを強めている上(注4)、人口動態面でも生産年齢人口比率はすでに減少に転じるなど人口ボーナスは終えんを迎えており、潜在成長率の低下が避けられなくなっている。こうした状況ながら、経済界は財閥を中心とする保守層が中枢を牛耳ることで新興企業が育ちにくく、ASEAN(東南アジア諸国連合)内でもユニコーン企業(企業価値が10億ドル以上の未上場企業)の数が少ないといった問題を抱えるなど中長期的な競争力低下が懸念されている。政治面での民主化の動きが後退することは、経済活動を巡る自由度の低下を招くことになれば、結果的に同国経済に対する魅力低下を大きく損なわせるリスクもあり、その意味では楽観的なムードに傾くことは難しいと捉えられる。

図1 首班指名選挙の結果
図1 首班指名選挙の結果

図2 バーツ相場(対ドルの推移)
図2 バーツ相場(対ドルの推移)

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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