タイで反政府デモ再燃、議会は不信任案否決も、経済、政治ともに視界不良続く

~政府は行動制限解除に動くも感染動向に不透明感、政治を巡る状況にも不透明感がくすぶる~

西濵 徹

要旨
  • ASEANは変異株による新型コロナウイルスの感染拡大の中心地となるなか、タイはその一角となるなど日本経済や世界経済への悪影響が懸念される。タイではCOVAXへの不参加がワクチン確保に手間取る一因となるも、その後は一転して調達を積極化させる一方で後手を踏む対応が続き、完全接種率はASEAN内でも遅れている。他方、7月以降に急拡大した新規陽性者数は足下で頭打ちするも、死亡者数は拡大が続くなど感染動向は厳しい状況にある。なお、ワクチン接種は周辺国と比較して遅れているにも拘らず政府は先月以降ブースター接種を開始しており、正しい現状認識に基づく戦略の立て直しが不可欠な状況にある。
  • 昨年来の政府の新型コロナ禍対応を巡っては、民主化デモの動きも相俟って反政府デモが活発化する動きがみられた。年明け以降は感染動向の悪化を受けて反政府デモは「一時休戦」となったが、憲法改正議論のふりだしを受けて再燃している。野党が議会に提出した首相など主要閣僚に対する不信任決議案は否決されたが、反政府デモの動きは収まりそうにない。こうしたなか、政府は今月から行動制限の解除に動いているが、ワクチン接種が遅れていることを勘案すれば、感染動向が再び悪化する懸念がある。反政府デモが激化する可能性もくすぶり、タイの経済及び政治を巡る動きにはもう一波乱ある可能性に留意が必要である。

このところのASEAN(東南アジア諸国連合)は、感染力の強い変異株による新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染拡大の中心地となる状況が続いており、域内の国々では感染対策を目的とする行動制限の再強化に動くなど景気に冷や水を浴びせる事態となっているほか、域内に張り巡らされたサプライチェーンを通じて日本経済のみならず、世界経済に悪影響を与える動きが出ている。こうしたなか、ASEAN内で最も製造業をはじめとする産業の集積度合いが高く、多数の日本企業が進出して8万人超の邦人が在留するタイでは7月以降に感染拡大の『第3波』が顕在化しており、政府は感染拡大の中心地となっている首都バンコク周辺などを対象に事実上の都市封鎖(ロックダウン)を実施、その後も感染動向の悪化を受けて対象地域が広げるなど景気への悪影響は避けられなくなっている(注1)。なお、同国政府は元々国際的なワクチン供給スキーム(COVAX)への不参加を決めるなどワクチン接種に後ろ向きの姿勢をみせており、欧米や中国など主要国ではワクチン接種の進展が経済活動の再開を後押しする動きがみられるなかでワクチン接種が遅れる一因となってきた。その後は中国によるいわゆる『ワクチン外交』を通じたワクチン供給に加え、米国や日本によるワクチン供給の受け入れなどを進めているほか、6月にはタイ国内で英国製ワクチンのライセンス生産が開始されるなど、供給体制の整備により挽回を図る動きを進めている。こうした動きを受けて、今月4日時点におけるワクチンの部分接種率(少なくとも1回は接種を受けた人の割合)は33.53%とASEAN主要国のなかでシンガポール、マレーシアに次ぐ水準となるなどワクチン接種のすそ野は広がっている一方、完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は11.15%とASEAN主要6ヶ国のなかではベトナムに次ぐ低水準に留まるなど、ワクチン接種が大きく遅れていることは間違いない。足下における累計の陽性者数は126万人強、死亡者数は1.2万人強に留まるものの、先月半ばには人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)が330人弱に達するなど感染爆発状態となり、その後は一転して頭打ちする動きをみせているものの、依然として230人(今月5日時点)と高止まりしている。さらに、新規陽性者数は頭打ちの動きをみせているものの、医療インフラに対する圧力が強まっていることを反映して、死亡者数の拡大ペースは加速感を強めるなど厳しい状況が続いている。なお、欧米や中国など主要国ではワクチンによる免疫効果を上げるべく『ブースター接種』が行われる動きがみられるなか、上述のように同国はワクチン接種そのものが遅れているにも拘らず、先月以降は高齢者や慢性疾患を擁する高リスク者を対象とする追加接種が開始されている(今月4日時点で0.84%)。ただし、世界的にワクチン獲得競争の激化が予想される状況にも拘らず、同国政府が全方位でワクチン接種を図る動きをみせていることは、国内におけるワクチンの需給ひっ迫を引き起こすことも懸念され、正しい現状認識に基づく戦略の立て直しを迫られる可能性も予想される。

図表
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昨年来の新型コロナ禍と政府の対応を巡っては、後手を踏む展開が続いてきたことに加え、事実上の軍政状態が続いていることへの反発も相俟って反政府デモが展開されたほか、政権批判の一部は憲法上不可侵とされてきたワチラロンコン国王をはじめとする王族に向かうなどといった動きにも発展した(注2)。こうした事態を受けて、政府は反政府デモを封じ込めるべくデモ隊のリーダーの逮捕など強硬手段に出たほか、王室改革を求めるデモに対してはあらゆる法律を適用して臨む姿勢も辞さないなど(不敬罪の援用による逮捕)、『何でもあり』の動きをみせた結果、反政府デモ側の対応が一段と活発化する事態を招いた。ただし、年明け直後にかけては変異株の流入を受けた感染動向の急激な悪化を受けて反政府デモは『一時休戦』に動いたものの、その後の感染動向の改善を受けて『平和的な』デモを再開させた。なお、反政府デモが要求してきた憲法改正を巡っては、一昨年末に議会で改憲手続きが前進する動きがみられたものの、今年3月には議会において憲法起草会議の設置案が与党の反対により否決された結果、憲法改正を巡る議論は大きく先送りされるとともに事実上『ふりだし』に戻された(注3)。こうしたことから、その後の同国内における感染動向は急速に悪化しているにも拘らず、憲法改正や王室改革、民主化要求といった反政府デモの要求が強まっている上、新型コロナ禍対応を巡る政府による対応の拙さも相俟って市民の間からもプラユット首相の退任を求める動きも活発化してきた。なお、政府は反政府デモを抑えるべく治安部隊が放水車を出動させるとともに、催涙弾やゴム弾を使用するなど強硬姿勢をみせており、衝突が激化する動きもみられた。こうしたなか、議会では野党がプラユット首相のほか、新型コロナ禍対応の責任者であるアヌティン保健相ら閣僚5人に対する不信任案を提出して審議が行われた。与党連立の間には、このところの反政府デモの激化を受けてプラユット政権が強硬姿勢を強めていることに反発する向きがみられたものの、4日に議会下院(人民代議院)で行われた評決では、与党が反対多数(264票)ですべての不信任案が否決された(与党連立内で12名が「白票」を投じた模様)。プラユット政権の発足当初は、与党連立全体でも議会下院の半数をギリギリ上回る議席を維持出来る状況に過ぎなかったものの、その後の各党による引き抜き工作などを受けて与党連立は議席数を増やす一方、少数政党の寄り合い所帯ゆえに不安定化が懸念される状況が続いてきた。ただし、不信任案への対応を巡っては与党連立としての『結束』が確認された格好である。他方、上述のように新規陽性者数が頭打ちしていることを受けて、政府は今月から首都バンコクを含む感染リスクの高い地域においても小売店や飲食店の営業に関する制限を解除するなど行動制限の解除による経済活動の再開に舵を切る動きをみせている。こうした背景には、行動制限の長期化に伴う景気減速の動きが政府への不満を増幅させていることを危惧したものと捉えられる一方、拙速な制限解除は感染動向の急激な悪化を招くリスクがある。事実、今月に入って以降は人の移動が大きく底入れする兆しもみられ、ワクチン接種が遅れるなかでのこうした動きは感染動向の急激な悪化に繋がる可能性も予想されるだけに、タイ経済及び政治を巡る動きについてはもう一波乱が起こる可能性に留意する必要があろう。

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以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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