タイ景気、感染再拡大により「踊り場」の長期化は避けられない模様

~政府は成長率見通しを+0.7~1.5%に再修正、感染動向が経済を揺さぶる展開が続く~

西濵 徹

要旨
  • 足下のASEANは変異株による新型コロナウイルスの感染拡大の中心地であり、タイはその一角となっている。都市封鎖による経済活動への悪影響が懸念される上、産業集積の度合いを勘案すれば日本経済にも悪影響を与え得る。陽性者数の拡大を受けて死亡者数も拡大傾向を強めるなか、ワクチン接種の遅れが感染悪化を招いていることを勘案すれば早期の状況改善は期待しにくく、経済への不透明感が高まっている。
  • 4-6月の実質GDP成長率は前期比年率+1.53%と4四半期連続のプラス成長となるなど景気の底入れが続いており、世界経済の回復を追い風とする外需の拡大に加え、財政出動や感染一服を受けたペントアップ・ディマンドの発現が家計消費を押し上げる動きもみられた。ただし、景気の先行き不透明感は設備投資需要の重石となっている。さらに、足下の感染動向の急速な悪化を受けて人の移動は下振れしており、家計消費など内需に幅広く下押し圧力が掛かるなど、景気に急ブレーキが掛かることは避けられそうにない。
  • 政府はGDP統計公表に併せて、都市封鎖の長期化や外国人観光客の下振れなどを理由に、今年の成長率見通しを+0.7~1.5%に下方修正した。他方、中銀は景気下支えに向け1兆バーツ規模の財政出動が必要との見解をみせている。財政余力は小さくないと判断出来るが、過度な財政依存によりバーツ安圧力が強まれば、過剰状態にある家計債務の負担増が経済活動の重石となり得ることに留意する必要があろう。

足下のASEAN(東南アジア諸国連合)諸国を巡っては、変異株による新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染拡大の中心地となるなかでタイはその一角となっており、感染動向の急激な変化を受けて先月半ばに首都バンコク周辺で事実上の都市封鎖(ロックダウン)が実施されたほか、その後も対象地域が拡大されるなど幅広く経済活動に悪影響が出ることが懸念されている。なお、タイは自動車や電気機械関連など幅広い製造業で産業集積の度合いがASEAN内でも突出しており、多数の日本企業も進出していることで8万人強の邦人が在留するなど、同国の感染動向及び経済活動への悪影響はサプライチェーンを通じて日本経済にも伝播することが懸念される(注1)。足下における累計の陽性者数は92.8万人とASEAN内で4番目であり、新規陽性者数も2万人強で推移するなど周辺国と同規模で推移しているものの、人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)は今月16日時点で329人とマレーシア(636人)に次ぐ水準であるなど極めて厳しい状況にある。さらに、新規陽性者数の急拡大により医療インフラに対する圧力が強まっていることを受けて、足下では死亡者数の拡大ペースも加速の動きを強めており、感染動向は急速に悪化している様子がうかがえる。足下においてASEAN諸国の感染動向が急激に悪化している背景にワクチン接種の遅れが挙げられるなか、今月15日時点におけるタイ国内における部分接種率(少なくとも1回は接種を受けた人の割合)は25.35%とASEAN主要6ヶ国のなかではシンガポール、マレーシアに次ぐ水準である一方、完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は7.21%とASEAN主要6ヶ国のなかでベトナムに次ぐ低水準に留まるなど、ワクチン接種が遅れていると判断出来る。政府は早期のワクチン接種による集団免疫の獲得を通じて新型コロナ禍を経て疲弊した同国経済の立て直しを図るべく、今年10月初旬を目途に全国民の4分の3に当たる5,000万人を対象に少なくとも1回のワクチン接種を完了させる計画を掲げている。政府は中国によるいわゆる『ワクチン外交』によるワクチン供給、米国や日本によるワクチン供給の受け入れに加え、6月にはタイ国内で英国製ワクチンのライセンス生産が開始されるなど着実に供給体制の整備が進められている。ただし、部分接種率の上昇ペースを勘案すれば政府が掲げる目標実現のハードルは依然として高いほか、足下において感染拡大が広がっている変異株に対してはワクチンの効果が低いとの見方も示されるなど、早期に感染収束を図ることは難しい状況にあると判断出来る。その意味では、タイ経済を取り巻く状況に対する不透明感が急速に高まっていると言えよう。

図表
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他方、上述のように多くのASEAN諸国が感染力の強い変異株による感染拡大を受けて行動制限の再強化に動いたことで景気減速を余儀なくされる事態に見舞われている一方、多くの新興国が公表する実質GDP成長率は前年同期比ベースであることも影響して久々のプラス成長に転じるなど、一見すると景気回復が進んでいるようにみえる。タイの4-6月の実質GDP成長率は前年同期比+7.54%と前期(同▲2.54%)から6四半期ぶりのプラス成長に転じているものの、前期比年率ベースの成長率は+1.53%と前期(同+0.76%)から4四半期連続のプラス成長となるなど景気の底入れが進んでいる様子はうかがえるも力強さを欠く推移が続いている。実質GDPの規模も新型コロナ禍の影響を受ける直前の一昨年末と比較して▲3.8%程度下回る水準に留まっており、依然としてその影響を抜け出すことが出来ていない。タイ経済を巡っては、ASEAN諸国のなかでもGDPに占める財輸出の比率が高いなど世界経済の回復による世界貿易の底入れの動きの恩恵を受けやすく、当期についても欧米や中国など主要国を中心とする世界経済の回復を追い風に財輸出は拡大している。さらに、タイ経済は主に外国人観光客を中心とする観光関連産業がGDPの1割強を占める一大産業となっており、昨年10月に外国人観光客の受け入れ再開以降も感染再拡大などが影響して低水準で推移しているものの、緩やかに底入れしていることが影響してサービス輸出にも押し上げ圧力が掛かる動きがみられる。また、政府による景気下支えを目的とする財政出動を追い風に公共投資が押し上げられているほか、年明け直後にかけての感染再拡大の動きが一服したことで人の移動が底入れするなどペントアップ・ディマンドが発現するとともに、インフレ昂進の動きが一巡して実質購買力への下押し圧力が後退したことも相俟って家計消費は押し上げられている。他方、中銀は金融緩和による景気下支えに動いているにも拘らず、感染動向を巡る不透明感は企業部門の設備投資意欲の重石となっており、景気の足を引っ張っている。なお、過去2四半期については在庫投資の成長率寄与度が前期比年率ベースでプラスとなるなど在庫の積み上がりの動きが成長率の押し上げに繋がったものの、当期については3四半期ぶりのマイナス寄与となるなど在庫調整が進んでいることも景気の重石になっている。その意味では、足下の景気は表面的な数字に比べて内容は良いと捉えることが出来る一方、感染動向の急激な悪化を受けて人の移動に下押し圧力が掛かるなど家計消費への悪影響が避けられないほか、企業部門の設備投資意欲も一段と下押しされる可能性を勘案すれば、先行きの景気に急ブレーキが掛かることは避けられそうにない。

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なお、政府(国家経済社会開発評議会:NESDC)は4-6月のGDP統計の公表に併せて、今年通年の経済成長率見通しを改定して+0.7~1.2%とし、1-3月の統計公表直後に発表時に示した従来見通し(+1.5~2.5%)から下方修正するなど、昨年(▲6.1%)の反動が期待されたにも拘らず低成長に留まるとの見通しを示した。NESDCは下方修正の理由として、都市封鎖の実施やその長期化による幅広い経済活動の下振れに加え、外国人観光客の低迷が関連産業の足を引っ張る展開が続くことを挙げている。他方、中銀は今月初めに開催した定例会合に併せて今年通年の経済成長率見通しを+0.7%に下方修正する一方、景気下支えに向けて政策金利を据え置くなど金融緩和を維持しつつ、状況如何では追加緩和に含みを持たせる姿勢をみせた(注2)。中銀のセタプット総裁はGDP統計の公表後に行った記者会見において、足下の経済状況について「アジア通貨危機よりも深刻な状況にある」との認識を示した上で「強力かつ適切な『薬』が必要」として追加的に1兆バーツ(GDP比6.3%)規模の資金が必要との考えを示した。その上で、足下の財政状況については「全く心配していない」との見方を示す一方、金融政策について「反応が鈍い」との考えを示すなど政出動の必要性を強調した格好である。6月末時点における公的債務残高のGDP比は56.1%と比較的低水準に留まっており、財政出動の余地は小さくないと判断出来る。しかし、過度に財政政策への依存度を強めることで通貨バーツ相場に対する調整圧力が強まれば、同国は家計部門の債務残高はアジア太平洋地域でも突出するなかで債務負担の増大が幅広い経済活動の足かせとなるリスクがある。その意味では、タイ経済の行方は早期に感染収束を図ることが出来るか否かに掛かっていると言えよう。

図表
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以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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