インドネシアの比ではない、タイの感染再拡大による日本への影響

~進出企業や在留邦人はASEAN主要国のなかで突出、対策の政治利用による悪影響にも要注意~

西濵 徹

要旨
  • 世界経済は、主要国で感染一服やワクチン接種を追い風に景気回復期待が高まる一方、新興国などで感染再拡大による行動制限の再強化が景気に冷や水を浴びせるなど、好悪双方の材料が混在する。ASEANが感染拡大の中心となるなか、マレーシアやインドネシアに次いでタイの感染動向も急速に悪化している。ワクチン接種の遅れも感染動向の悪化を招くなか、政府はワクチン輸出規制を検討するなどアジア新興国のワクチン供給への悪影響も懸念される。同国は多数の日本企業が進出して在留邦人も8万人強に上るなか、感染動向の急激な悪化は業務に支障を招くなど、進出企業の業績などに悪影響が出ることは必至である。
  • タイでは2019年の民政移管後も事実上の軍政が続くなか、総選挙で躍進した新未来党(その後に解党)支持者を中心に反政府デモが活発化した。政府の新型コロナ禍の拙さは火に油を注いだが、政府は新型コロナ禍対応を名目にした集会禁止により抑え込むなど、対策を政治利用してきた。足下では感染動向が急速に悪化するなかで反政府デモも再び活発化しており、都市封鎖措置を再び政治利用した格好である。表面的には平静を取り戻す可能性がある一方、今後のタイは「陰の部分」がより色濃くなることが懸念されよう。

世界経済を巡っては、欧米や中国など主要国を中心に新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染一服やワクチン接種の広がりを追い風に経済活動の正常化が進むなど景気回復への期待が高まる動きがみられる一方、アジアをはじめとする新興国や一部の先進国で感染力の強い変異株による感染再拡大が広がり、行動制限が再強化されるなど景気に冷や水を浴びせる動きがみられるなど、好悪双方の材料が混在する。先月以降においてはASEAN(東南アジア諸国連合)が感染拡大の中心地となる様相を強めるなか(注1)、足下においてはマレーシアが感染爆発に直面している上、インドネシアも感染が急拡大するなど厳しい状況に追い込まれているほか(注2)、タイにおいても先月半ば以降に新規陽性者数が急拡大するなど(注3)、急速に感染動向が悪化している。タイ国内における感染再拡大の動きは、当初は刑務所でのクラスター(感染者集団)の発生など局所的な動きに留まっていたものの、その後は市中感染が広がるなど急速にすそ野が広がっている。さらに、タイ国内における1日当たりの新規陽性者数は1万人を上回るなど過去最高を更新している上、人口100万人当たりの1日当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)も今月18日時点で145人と、マレーシア(353人)、インドネシア(185人)に次ぐ水準となるなど着実に悪化の度合いが高まっている。さらに、新規陽性者数の急拡大に伴い医療インフラに対する圧力が強まっていることを受けて、足下では死亡者数も拡大ペースを強めるなど医療ひっ迫が進んでいる様子がうかがえる。このようにアジア新興国で感染再拡大が広がっている一因にワクチン接種の遅れが挙げられる。今月18日時点におけるタイ国内の完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は4.93%、部分接種率(少なくとも1回は接種を受けた人の割合)も15.45%に留まるなど、ワクチン接種を巡って感染者数が急減する『閾値』と捉えられる40%を大きく下回る。政府は早期の経済立て直しを図る観点から、今年10月初旬を目途に人口の4分の3に当たる5,000万人を対象に少なくとも1回のワクチン接種を完了させる計画を掲げており、2月以降に医療関係者などを対象に中国製ワクチンの接種が開始され、先月には英国製ワクチンが到着したほか、同国でも英国製ワクチンのライセンス生産が開始されるなど供給体制の整備も進められてきた。しかし、感染動向の急速な悪化を受けて、政府は同国で生産されるワクチンの輸出規制を検討するなどなりふり構わぬ姿勢をみせており、アジア域内におけるワクチン接種計画に悪影響が出ることが懸念される。他方、政府は今月からは南部プーケット島限定でワクチン接種済の外国人観光客を隔離なしで受け入れ開始に動いたほか、10月中旬には全土でワクチン接種済の外国人観光客を隔離なしで受け入れる規制緩和を目指す方針を示してきた。ただし、感染動向の急変を受けて政府は今月12日に首都バンコクをはじめとする10都県を対象とする事実上の都市封鎖(ロックダウン)に動いたほか、感染動向のさらなる悪化を受けて20日からは対象を13都県に拡大するとともに、13都県の空港を発着する国内線の運航を原則禁止するなど強力な行動制限に舵を切ることを明らかにしている。一連の対応策に加えて感染動向の急速な悪化を受けて、5月半ば以降は底入れの動きを強めてきた人の移動は一転頭打ちする動きをみせる一方、ASEAN内でも自動車や電気機械関連の産業集積が進んでいる同国における経済活動の低迷、とりわけ生産活動の停滞はアジア域内のみならず、わが国にも影響を及ぼす可能性がある。同国を巡っては、2011年に発生したチャオプラヤ川での大洪水に伴う幅広い生産活動の停滞によってわが国でも様々な生産活動などに悪影響が出る事態に発展したが、同様の事態に陥るリスクを頭に入れる必要もある。同国には数多くの日本企業が進出して在留邦人は8.1万人と世界4位であるなどASEAN内で最も多い上、人口規模(6,619万人)との対比でもシンガポール以外のASEAN諸国と比較して図抜けているなど現地の日本人コミュニティのすそ野は厚い。足下では在留邦人の間にも感染が広がる動きがみられるほか複数の死亡者も発生しており、進出企業の間には従業員や家族の帰国を検討する動きも広がっており、業務などにも影響が出ることは避けられそうにないなど企業業績などに悪影響が出ることも懸念される。

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一方、昨年来の新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)を受けた政府による対応を巡っては、後手を踏む展開が続いてきたこともあり、国民の間には政府の新型コロナ禍対応に対する不満がくすぶる動きがみられた。プラユット政権を巡っては、元々2014年に発生した軍事クーデターを経て発足したほか、2019年に実施された議会下院総選挙を経て形式的に民政移管が果たされる形で継続される一方、軍の影響力が強い親軍政党を後ろ盾とするなど事実上の軍政状態にあると捉えられる(注4)。他方、総選挙においては『反軍政』を謳った第3局政党である新未来党(アナコットマイ党)が大躍進を果たすとともに、同党の党首であったタナトーン氏は存在感を高めたものの、総選挙後に軍及び政権の影響力が強い憲法裁判所は同氏の議員資格のはく奪を決定するとともに、その後も同党に対して解答命令を下す判断を行ったため、同党の支持者を中心に政権に対する反発がくすぶってきた。こうした状況もあり、政権による新型コロナ禍対応を巡る不手際は同党支持者を中心とする政権批判を盛り上げることに繋がったため、政府は『新型コロナ禍対応』を名目とする非常事態宣言の発令による事実上の集会禁止に踏み切るなど『政治利用』する動きをみせてきた(注5)。その後は、政権批判を発端とする民主化を求める動きは、ワチラロンコン国王(ラーマ10世)が新型コロナ禍の最中にドイツの高級リゾート地で『自主隔離』していたことが明らかになったことをきっかけに、2016年に国王に即位した同国王の下で国王個人の権限強化が進むとともに、軍と王室の関係強化が図られる動きがみられてきたことも相俟って王室批判に発展する事態となった(注6)。こうした状況も政権が新型コロナ禍対応を政治利用する一因に繋がったとみられる一方、年明け以降は感染拡大の『第2波』が顕在化したことを受けて反政府デモ側が『一時休戦』を決定するなど感染対策を支援する動きがみられたものの、反政府デモが要求した憲法改正は今年3月に議会で否決されるなど『ふりだし』に戻ったことを受けて、その後の反政府デモは『平和的に』活発化する動きがみられた(注7)。さらに、足下の感染動向が急速に悪化していることを受けて、先月には反政府デモが再び活発化するとともに、今月18日には首都バンコクで発生した反政府デモでは参加者と警察が衝突して複数の負傷者が出たほか、逮捕者も出る事態となっている。政府による都市封鎖をはじめとする感染対策の強化の動きは、反政府デモの『封じ込め』を目的とする政治利用の側面もうかがえるなか、インターネット上の監視などの動きも相俟って表面的には沈静化する可能性はある一方、今後はそうした『陰の部分』が色濃くなることにも注意が必要と言える。

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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