タイ、マレーシアやインドネシアに次ぐ形で感染動向は急速に悪化

~外貨準備高は充分だが、ファンダメンタルズの悪化を理由にバーツ安への対応を迫られる展開~

西濵 徹

要旨
  • 足下の世界経済は、主要国で新型コロナウイルスの感染一服やワクチン接種が進み景気の底入れが促される一方、新興国などで変異株による感染再拡大を受けて行動制限が再強化されるなど好悪双方の材料が混在する。タイはASEAN内では累計の感染者数は小規模に留まるが、新規陽性者数が急拡大して死亡者数も拡大傾向を強めるなど感染動向は急速に悪化している。ワクチン接種も遅れるなかで政府は段階的に国境封鎖を解く姿勢をみせるが、景気回復の実現に向けたハードルは依然高い状況にあると言える。
  • 観光関連産業の回復の遅れが景気の足かせとなるなか、足下の経常収支は赤字に転じており、国際原油価格の底入れがインフレを招くなかで財政状況も悪化するなど経済のファンダメンタルズは脆弱になっている。こうした動きを受けてバーツ安が進むなか、中銀は一転してバーツ安阻止に向けた対応を迫られている。外貨準備高は国際金融市場の動揺に充分耐え得る水準にあるが、中銀の政策対応は困難さを増している。

足下の世界経済を巡っては、欧米や中国など主要国で新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染一服やワクチン接種を背景に経済活動の正常化が進んで景気の底入れが促される動きがみられる一方、新興国や一部の先進国で感染力の強い変異株による感染再拡大が広がり、行動制限が再強化されるなど景気に冷や水を浴びせる動きがみられ、好悪双方の材料が混在している。なお、足下ではASEAN(東南アジア諸国連合)諸国が感染拡大の中心地の一角となっているが(注1)、主要国を中心とする景気底入れは世界貿易を押し上げることで経済に占める財輸出比率が高い国には景気の追い風となる一方、外国人観光客を中心とするサービス輸出比率の高い国には人の移動制限が逆風となることは避けられない。タイはASEAN内では経済に占める財輸出比率が相対的に高い一方、サービス輸出比率は他の国々に比べて高い特徴があるため、足下の状況については好悪双方の材料が混在していると判断出来る。タイ国内の感染動向を巡っては、昨年末以降に感染が再拡大する『第2波』が直撃して政府は行動制限を再強化したことで一旦は落ち着きを取り戻す動きをみせたものの、4月以降は変異株の流入を受けて感染が再拡大する『第3波』に見舞われており、足下では感染拡大の動きに歩を合わせる形で死亡者数も拡大ペースを強めるなど状況は厳しさを増している。なお、足下における累計の陽性者数は28万人強とASEAN内では比較的小規模に留まっているものの、人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)は急上昇しており、厳しい事態に直面しているマレーシア(注2)、インドネシア(注3)に次ぐ水準となるなど急激に状況は悪化している。一方、主要国ではワクチン接種が広がりをみせているものの、アジア新興国においては世界的なワクチン獲得競争の激化に加え、世界有数のワクチン生産国であるインドでの感染爆発を受けた禁輸措置のほか(注4)、その後の同国政府による無計画なワクチン接種計画も影響して世界的な供給が細ったことも重なり、ワクチン接種が世界的に遅れる事態となっている。タイについても、今月3日時点における完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は4.10%、部分接種率(少なくとも1回は接種を受けた人の割合)も10.55%と世界平均(それぞれ11.19%、23.91%)を大きく下回るなどワクチン接種が遅れていることは間違いない。政府は早期の経済立て直しを目指して今年10月初めを目途に人口の75%に当たる5,000万人を対象に少なくとも1回はワクチン接種を完了させるほか、今月1日には南部のプーケット限定でワクチン接種済の外国人観光客の隔離なしでの受け入れを開始しており、10月中旬には全土でワクチン接種済の外国人観光客に隔離なしで入国可能とする規制緩和を目指すなど、国境開放を前進させる方針を示している。足下では計画実現に向けて部分接種率が上昇傾向を強める動きをみせているほか、日本や米国がワクチンを寄付するなどの支援に動いており、今後は事態が大きく前進する可能性はあるものの、計画実現のハードルは依然として高い状況は変わっていないと判断出来る。

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なお、中銀は先月末に開催した定例会合で政策金利を据え置いたほか、今年及び来年の経済成長率見通しを引き下げるとともに、先行きの政策運営を巡っては追加利下げの可能性に含みを持たせつつ、景気下支えに向けて低金利環境を長期に亘って維持する考えを示した(注5)。その後も中銀は同国の実質GDPが新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)の影響を受ける直前の水準に回復するのは2023年1-3月になるとの見方を示した上で、その理由に観光部門の回復の遅れを挙げたほか、今年の外国人観光客数は7万人に留まるも、来年には1,000万人に回復が進むとの見通しを示した。他方、観光関連業界は今月からのプーケットにおける外国人観光客の受け入れ再開や10月以降の全面再開を理由に、今年の外国人観光客数の見通しを300万人と昨年(670万人)の半分弱になるとの見方を示す一方、その実現には中国による同国への渡航許可が前提となっていることを勘案すれば、極めて楽観的に過ぎる見通しと判断せざるを得ない(中国による渡航許可が下りなければ50万人に留まると想定)。他方、上述のように中銀は追加利下げの実施による景気下支えに動く可能性に含みを持たせているものの、昨年後半以降における原油をはじめとする国際商品市況の底入れなどを反映して足下のインフレ率は中銀の定めるインフレ目標の中央値(2%)を上回るなどインフレが懸念される状況にある。さらに、外国人観光客の減少に伴うサービス収支は赤字に転じるとともに赤字幅が拡大していることを受けて、足下の経常収支は赤字に転じるなど対外収支構造は悪化しており、政府による巨額の財政出動を背景に財政状況も急速に悪化するなど、同国経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)は脆弱さが増している。こうした状況に加え、足下の国際金融市場においては米FRB(連邦準備制度理事会)による将来的な政策運営の見直しが意識されるなか、通貨バーツ相場は調整の動きを強める展開をみせており、中銀は昨年末のバーツ高局面に際してバーツ高圧力の緩和を目的に資本流出を促すべく外為規制の緩和に動いたものの、足下では一転してバーツ安抑制を目的に外為規制の調整に動く必要に迫られるなど難しい状況に直面している。なお、上述のように足下の対外収支は悪化する動きをみせているものの、外貨準備高はIMF(国際通貨基金)が想定する国際金融市場の動揺に対する耐性の「適正水準」を大きく上回っており、かつてアジア通貨危機の発火点となった状況とは大きく異なる一方、急激なバーツ安は輸入物価の押し上げを通じたインフレ圧力のほか、対外債務負担の増大が幅広い経済活動の足かせとなるリスクもあるなど、中銀の政策運営を巡っては難しい対応を迫られることになるであろう。

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以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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