タイ、首相と中銀総裁の間に経済政策を巡る「見解の相違」の兆し

~公的債務、家計債務などリスク要因を抱えるなか、政府と中銀の軋轢が増す可能性も~

西濵 徹

要旨
  • タイでは先月、タクシン派のタイ貢献党が親軍政党との大連立を形成した上でセター政権が発足した。政権は経済優先を掲げるが、その背景には選挙後の政党間協議を経て国民の分断が広がったこと、足下の景気に不透明感が高まっていることがある。他方、足下のインフレ率は中銀目標を下回る推移が続くが、中銀は先月末の定例会合でも断続利上げを維持しており、商品市況の底入れや政府の財政出動に伴う物価の上振れを警戒している。政権は現金給付策を公約に掲げるが、その財源は不透明であるなど財政悪化を招く懸念があり、中銀のセタプット総裁はセター首相との会合を経て政策運営を巡る見解の相違を隠さない。家計債務の過剰感が警戒されるなか、現金給付策を追い風に一段と上振れするリスクもくすぶる。外貨準備高の水準は国際金融市場への耐性という点で充分と判断できるが、政権が掲げるバラ撒き政策が経済のファンダメンタルズの脆弱さを高める懸念もくすぶり、政府と中銀の間で軋轢が高まる可能性もある。

タイでは先月、いわゆる『タクシン派』政党であるタイ貢献党に所属するセター・タビシン氏が首相に就任するとともに、政権を支える与党連合は同党を中心とする中道右派政党のみならず、親軍政党が加わる形で大連立となった。なお、与党連合を構成する貢献党、親軍政党はともにバラ撒き政策を志向するなど経済政策面では親和性が高いなか、セター政権はコロナ禍で疲弊した経済の立て直しを目的に、最低賃金の大幅引き上げ、年末までを対象とする軽油税減税と電気料金引き下げのための補助金給付、農家を対象とする3年間の債務返済猶予措置のほか、16歳以上の全国民を対象とするデジタルウォレットによる現金給付(1万バーツ)の実施といった公約を掲げる(注1)。さらに、セター首相は先月の国連総会出席のための訪米に際して、米国のテクノロジー関連企業の幹部と相次いで会談を行った上で、同国への投資実施に向けた協議を行うなどの動きをみせている。5月の総選挙後の政権樹立を巡っては、第1党となった急進民主派の前進党が公約に掲げる王室改革や国軍改革が保守派や親軍派などの反発を招くとともに、結果的に国民の間の分断に繋がることが懸念される事態となった。よって、セター政権としては多くの国民に関係する経済政策に注力することで国民の分断を避けたいと考えている。また、親軍派との大連立構築という『公約破り』を理由に支持率が低位で推移していることも、政権が経済政策に注力する一因になっているとみられる。足下の同国景気を巡っては、世界経済の減速懸念の高まりを受けて財輸出や企業部門による設備投資の足かせになるとともに、政治空白の長期化を理由に政府消費も低迷して頭打ちの動きを強めており(注2)、こうした状況も政権が経済政策に注力する動きを後押ししている。他方、昨年の同国においては、商品高や国際金融市場での米ドル高を受けた通貨バーツ安に伴う輸入インフレが重なり、インフレ率が一時14年ぶりの水準に高進し、中銀は物価と為替の安定を目的とする断続利上げに動いたものの、昨年末以降における商品高と米ドル高の一巡の動きを追い風にインフレは一転頭打ちの動きを強めており、過去数ヶ月のインフレ率は中銀目標の下限を下回る推移が続いている。ただし、足下では主要産油国による年末までの自主減産延長に加え、異常気象が相次ぐなかで農産物の輸出禁止や輸出制限に動く国も出ており、こうした状況を受けて商品市況は底入れするなど食料品やエネルギーなど生活必需品を中心とするインフレ再燃の兆しが出ている。なお、上述のように足下のインフレ率は中銀目標の下限を下回る推移が続いているものの、中銀は先月末の定例会合において8会合連続の利上げを決定する一方、先行きの政策運営を巡って幾分『タカ派』姿勢を後退させる動きをみせている(注3)。セター首相は現金給付策に伴う財政支出が総額5,600億バーツ(GDP比3.2%)に達するとの見通しを示す一方、現時点においてもその実施方法や財源などを示しておらず、ここ数年はコロナ禍を経て公的債務残高が大きく上振れしていることを勘案すれば、財政状況が一段と悪化するリスクを孕んでいる。こうしたなか、現地報道などに拠ると中銀のセタプット総裁はセター首相と行った会合に関連して「異なる見解も幾分あったものの、対立はしていない」とした上で、「率直に議論を行うとともに、互いの意見に耳を傾けた」と述べた模様である。その上で、財政政策に関連して「長期的な成長力を検証する必要がある」とした上で、「財政支出は経済に影響を与える観点から抑制すべきであり、その代わりに投資誘致に向けた規制緩和や事業環境の改善に取り組む必要がある」と述べるなど、いわゆるサプライサイド改革の必要性に言及した。他方、セター首相も現金給付策について短期的な措置とした上で、上述した米国のテクノロジー関連企業幹部との面談を念頭に成長促進に向けた投資受け入れ拡大を目指す姿勢をみせるが、バラ撒き政策への依存を強めることは潜在成長力の低下を招く可能性がある。というのも、同国では家計債務がGDP比で約9割に達するなど突出しており、金融市場の動揺やこのところの金利上昇局面に対する脆弱性が高いことがある。中銀が足下のインフレが低水準で推移しているにも拘らず断続利上げを継続している背景には、商品市況の底入れを追い風にインフレ再燃の懸念が高まっていることに加え、セター政権が志向するバラ撒き政策もインフレ圧力に繋がることを警戒していると考えられる。さらに、昨年来の断続利上げ実施にも拘らず家計債務は緩やかな拡大が続いており、その背後で不動産価格は上昇の動きを強めるなど新たなリスク要因となる懸念が顕在化していることが挙げられる。なお、タイは1990年代末に発生したアジア通貨危機の『発火点』となったものの、その後の構造改革やそれに伴う産業構造の変化などを追い風に外貨準備高の積み上げが進んできた。コロナ禍を経て外国人観光客数が大きく落ち込むなどサービス輸出が鈍化したことで外貨準備高は減少したものの、足下では底打ちする動きがみられるなかで外貨準備高の水準はIMF(国際通貨基金)が国際金融市場の動揺への耐性の有無を示す基準としたARA(適正水準評価)に照らして「適正水準(100~150%)」を維持するなど、当時と状況は大きく異なる。しかし、年明け以降のバーツ相場は世界経済の減速懸念が外需の足かせとなる懸念が高まったことに加え、政治空白の長期化を受けて適時適切な政策対応が実施されないことが警戒されたこと、セター政権の発足後はバラ撒き政策により経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱さが増す可能性が嫌気される形で調整の動きを強めてきた。バーツ相場の動向については米FRB(連邦準備制度理事会)の政策運営など外部要因に拠るところが多い一方、足下では中東情勢を巡る不透明感の高まりが原油相場を押し上げる懸念も高まっている。その意味では、先行きの中銀による政策運営を巡っては困難さの度合いが増す事態も予想されるとともに、セター政権との軋轢が高まることも考えられる。

図1 公的債務残高とGDP比の推移
図1 公的債務残高とGDP比の推移

図2 家計部門の債務残高とGDP比の推移
図2 家計部門の債務残高とGDP比の推移

図3 外貨準備高とARA(適正水準評価)の推移
図3 外貨準備高とARA(適正水準評価)の推移

図4 バーツ相場(対ドル)の推移
図4 バーツ相場(対ドル)の推移

以 上

西濵 徹


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

執筆者の最新レポート

関連レポート

関連テーマ