タイ首相選、「司法のクーデター」を受けて2度目は中止の異例事態に

~ピタ政権の可能性は事実上終了、政界工作激化の背後でデモが活発化する可能性に要注意~

西濵 徹

要旨
  • タイでは5月の総選挙で民主派が大勝利を収める一方、第1党となった前進党のピタ党首の首相指名に保守派が反発を強めてきた。13日に実施された1回目の首班指名選挙では、議会上院の大宗を示す保守派の反対で半数を上回る票を獲得出来ず、2回目以降に持ち越された。19日に出直し選が予定されたが、直前に憲法裁がピタ氏の議員資格停止を発表する「司法のクーデター」に動いたほか、議会内でも保守派が中心となり出直し選自体が中止される事態となった。ピタ氏は首班候補を第2党の貢献党に譲る考えを示しており、同党のセター氏を中心に次回の出直し選が行われる見通しである。ただし、保守派の間には前進党の排除を目指す向きもあり、政界工作が活発化する一方で反発が強まる可能性も予想される。政局と無関係な動きを続けるバーツ相場を取り巻く環境が一変する可能性にも注意が必要になると考えられる。

タイでは今月、5月に行われた議会下院(人民代表院)総選挙を経て築かれる新政権に向けた一歩目となる首班指名選挙が行われている。総選挙では、『反軍政』を掲げる民主派の前進党が第1党、いわゆる『タクシン派』のタイ貢献党が第2党となる一方、選挙前に与党であった親軍政党は議席を大きく減らして少数派となるなど、民主派が大勝利を収めた(注1)。さらに、総選挙後には前進党と貢献党を含む8党が、前進党のピタ党首を首班候補に一本化した上で、新政権樹立に向けて連立を組むことで合意する動きをみせた。しかし、8党を併せた議席数は312と議会下院(総議席数500)では多数派となる一方、首班指名選挙は議会上院(元老院:総議席数250)を併せた総勢750人による投票が行われる上、上院議員は軍政の下で国軍が指名するなど、親軍色、且つ保守色が強い傾向がある。総選挙で第1党となった前進党は急進色の強い政権公約(不敬罪の緩和、徴兵制の廃止など)を掲げて躍進を遂げる一方、保守派の間にはこうした政権公約への拒否感が根強いとされる。こうしたなか、今月13日に1回目の首班指名選挙が実施され、ピタ氏が唯一の立候補者となるも同氏の得票数は324票と半数を下回ったことで結果は持ち越しとなった(注2)。上院議員からは13票がピタ氏に投票されるなど、事前には数票に留まるとみられていたなかで善戦したと捉えられる一方、上院議員の多数派を示す保守派の多くが選挙を欠席する動きをみせるなど、その『壁』になったことは間違いない。なお、ピタ氏は再選挙への出馬に意欲をみせる一方、2回目の選挙でも選出されなかった場合は貢献党に首班ポストを譲る可能性に言及するなど、8党連立の維持による政権交代に向けて一定の『譲歩』も辞さない考えを示した。また、前進党支持者を中心にバンコクなどで断続的にデモ活動が展開され、保守派に対して圧力を掛ける姿勢をみせた。他方、親軍派や保守派は前進党やピタ氏に揺さぶりを掛ける動きをみせており、保守派弁護士などが憲法裁判所に同党が掲げる公約が政権転覆を目的とした憲法違反に当たる旨の訴状を提出して受理されたほか、選挙管理委員会もピタ氏に対して総選挙への立候補資格を巡って憲法裁判所に判断を仰ぐ姿勢をみせた。憲法裁判所についても、裁判官は軍政下で選出されるなど国軍の強い影響下にあるなど、親軍色、保守色が強く、過去には度々憲法裁判所が政治に介入する『司法のクーデター』とも称される動きがみられるなど問題視されてきた。こうしたなか、19日に予定された再選挙の直前に、憲法裁判所が選挙管理委員会の訴えを受けてピタ氏に対して議員資格の一時停止を決定しており、司法手続きを通じた前進党、及びピタ氏を潰すための動きを強めた。なお、制度上は議員資格を有しない場合でも首相になることは可能であり、首班指名選挙も上下両院で過半数を上回る候補が出るまで実施し、同じ人物が何度も立候補することも可能であるが、19日に予定された再選挙には13日の前回選挙と同様にピタ氏が唯一の立候補者となった。これを受けて、議会内では保守派が議会運営規則(一事不再議の原則)に反すると主張したため、首班指名選挙を前にピタ氏を2回連続で首相候補として認定するか否かに対する投票が行われ、ピタ氏の候補資格を無効とした上で首班指名選挙自体を中止する決定がなされた。この決定を受けて『ピタ政権』の実現可能性は事実上なくなる一方、前進党、及びピタ氏の支持者などが保守派に対して一段と反発を強めることは必至であり、デモが一層激化していくことも考えられる。他方、上述のようにピタ氏は2度目の首班指名選挙で選出されない場合、首班候補を貢献党に譲る考えを示していたため、27日にも予定される次回の首班指名選挙では、仮に8党連立を前提とした場合には貢献党のセター・タビシン氏(大手不動産開発企業の元社長)が首班候補になると目される。ただし、保守派の間には前進党が連立政権入りすること自体への反発が強く、当初から貢献党が8党連立を脱退して親軍政党との連立を模索するとの見方が示されていたことを勘案すれば、早期の政権樹立に向けて大きく事態が動く可能性も考えられる。とはいえ、こうした総選挙における民意を完全に無視した政界工作は国民の反発を招くとともに、政治への関心を大きく低下させるなど新たな弊害を招くことも予想される。同国経済を巡っては、財閥を中心とする保守層がその中心を牛耳る展開が続くなど新興企業が育ちにくく、結果的にASEAN(東南アジア諸国連合)内でもユニコーン企業(企業価値が10億ドル以上の未上場企業)の数が少ないなどの問題を抱えており、中長期的な競争力低下を招く可能性も指摘されている。政治の問題と経済の問題を一緒くたに議論することは些か乱暴ではあるものの、政治面での自由度の低さが経済活動を巡る自由度に影響を与える可能性を勘案すれば、一連の動きは同国経済の魅力度を著しく損なうものとなることも懸念される。足下の国際金融市場では米ドル高の一服を反映して同国の通貨バーツ相場が底入れする動きをみせており、一連の政治を巡るゴタゴタが材料視されていないものの、事態が長期化するなかで混乱が拡大すればバーツを取り巻く状況は一変する可能性に留意する必要があろう。

図表1
図表1

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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