事実上の「禅譲宣言」から1年半、シンガポールの政権交代はいよいよ来年に

~ウォン氏への政権移譲は着実に進むなか、いよいよ具体的な日程の目途が示された格好に~

西濵 徹

要旨
  • シンガポールでは来年、リー首相が就任20年を迎える。リー氏は予てより70歳での首相引退を明言していたが、2020年の総選挙を経て21年にポスト・リーの最右翼であったヘン氏が辞退を発表して振り出しに戻った。昨年にはヘン氏より一世代若いウォン氏を次期指導者とする事実上の「禅譲宣言」が下された。その後はウォン氏への政権移譲に向けた取り組みが着実に前進してきた。こうしたなか、今月5日の与党PAP党大会において来年までに政権移譲するという具体的な日程の目途が示された。ウォン氏は若手政治家とリー氏などを交えた集団体制を模索するなど、政治の安定性と継続性を模索する姿勢をみせる。ただし、いよいよ同国政界において、リー一族の居ない体制に向けた動きが着実に進みつつあると捉えられる。

シンガポールでは来年、リー・シェンロン首相が就任して20年を迎える。リー氏は予てより、自身が満70歳を迎えるまでに首相を退任する意向を示すとともに、ここ数年はその『禅譲』に向けた環境整備を進めてきた。しかし、コロナ禍による経済、及び社会の混乱を受けて政権はコロナ禍対応に注力せざるを得なくなるとともに、リー氏による首相退任は事実上『棚上げ』される格好となった。政府によるコロナ禍対応を巡っては、世界的にみれば『優等生』と称されることが少なくなかったものの、コロナ禍の最中の2020年に実施された総選挙では、政権与党であるPAP(人民行動党)の得票率は過去3番目の低水準に留まるなど極めて厳しい審判が下された。なお、特異な選挙制度の影響により改選後もPAPは83議席と改選前と同数を維持したものの、国民の間には近年PAPの権威主義的、且つエリート主義臭さに対する反発が強まるなか、コロナ禍対応を巡る右往左往振りも相俟って失望を招いたとみられている。この結果を受けて、翌21年にリー氏の後継者の最右翼と見做されてきたヘン・スイキャット副首相が兼務していた財務相の退任に加え、次期首相の座から降りることを表明するなど、『ポスト・リー』を巡る動きは振り出しに戻った。ヘン氏は辞退の理由に自身の高齢を挙げたが、ヘン氏はリー氏などPAP内の『第3世代』に比べて10歳若い『第4世代』に当たることを勘案すれば、その理由には無理がある。実際には、ヘン氏が選挙対策の責任者として臨んだ2020年の総選挙での『惨敗』を受けて党内における求心力が急低下し、結果的に次期首相の座を降りざるを得なくなったことが影響したとみられる。結果、昨年2月にリー氏は上述のように引退時期としてきた満70歳を迎えたものの、ポスト・リーを巡ってはヘン氏を含む第4世代の『次』に当たる『第5世代』から選出する向きが強まった。こうしたなか、昨年4月に党内協議を経てヘン氏の後任として財務相を担うローレンス・ウォン氏を次期指導者に推す方針を決定するとともに、リー氏もウォン氏を次期指導者に選任した旨を明らかにするなど事実上の『禅譲宣言』を下した(注1)。その後、昨年6月にはウォン氏が副首相(兼、財務相)に就任するとともに、11月にはPAPの副書記長、今年7月には中銀である金融管理局の長官、政府系ファンド(ソブリン・ウェルス・ファンド)であるGICの副会長に就任するなど、着実に政権移譲に向けた取り組みは前進してきた。こうしたなか、PAPは今月5日に党大会を開催して党書記長であるリー氏は、来年11月に同党が結党70周年を迎えることを前提に、結党記念日までに党トップ(書記長)の座を譲る考えを明らかにするとともに、次期総選挙に向けた党勢の立て直しを進める姿勢を改めて示した格好である。なお、現在の国会の任期は2025年11月23日までと最長で2年強の時間があるものの、今年9月に実施された大統領選においては、PAP出身のターマン・シャンムガラトナム前上級相が70.41%という圧倒的な得票率により勝利しており、2020年の前回総選挙時点の得票率(61.23%)を大きく上回っている。年明け以降の同国政界では、リー首相の実弟であるリー・シェンヤン氏が兄との対立の後に亡命に追い込まれたほか、7月には汚職疑惑でサブラマニアム・イスラワン前運輸相が逮捕、同月には国会内での不適切発言や女性議員との不適切な関係を理由にタン・チュアンジン前国会議長が相次いで辞任するなど、政界を揺るがす動きが広がるなどPAPに悪影響が出ることが懸念された。こうした状況ながら、大統領選でのシャンムガラトナム氏の大勝利は世代交代の動きがPAPにとって『追い風』となっている様子がうかがえる。こうしたことから、PAP内においては次期総選挙の前倒しの実施を見込む動きが出ており、リー氏による今回の発表もそうした動きを意識したものと捉えることが出来る。ウォン氏は新たな指導体制を巡って若手政治家を軸にした陣容を念頭にしつつ、首相退任後のリー氏を含め、複数の閣僚に対して政府内に留まることを求めるなど、政権運営の安定性や継続性を重視した対応を目指す考えを示している。上述したように、同国は特異な選挙制度を有する上、PAPにとって極めて有利な内容となっていることを勘案すれば、次期総選挙後もPAPが政権与党の座を担うとともに、ウォン氏が次期首相に就任するのは既定路線と見込まれる。現時点において政治の安定に影響を与える可能性は極めて低いと見込まれるものの、独立以来リー一族(リー・クアンユー元首相とリー現首相)が要職を務めてきたなか、将来的にはリー一族の居ない同国政界を見据えた動きが着実に進むことが予想される。

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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