「デリスキング」で注目を集めるベトナムが直面する「電力不足問題」

~様々な構造問題が元凶となるなか、これを機に同国に対する見方が大きく変わる可能性に要注意~

西濵 徹

要旨
  • ここ数年の世界経済では、米中摩擦やコロナ禍、ウクライナ問題などを理由にグローバル化の動きが大きく変化しつつある。サプライチェーンを巡って見直しの機運が強まるなか、米中摩擦の「漁夫の利」を得たベトナムは、フレンドショアリングやデリスキングの観点でも注目が集まる。ベトナムは地理的にも交易環境の面でも利があるなか、対内直接投資が拡大するなどその恩恵を受けることが期待される状況となっている。
  • しかし、同国は石炭火力発電と水力発電への依存度が高いなか、異常気象による熱波の影響で電力不足に陥る懸念が高まっている。同国ではここ数年再生可能エネルギー関連の投資が急拡大しているが、官僚主義的な政治問題を理由に発電能力を活かせず、昨年末に合意した洋上風力発電計画もこう着状態が続く。足下では世界経済の減速を理由に景気は頭打ちの様相をみせるが、電力不足による経済活動の制約が景気の足かせになるとともに、構造的な問題による電力不足の解消には時間を要する可能性も高い。
  • 電力不足が構造的な問題に起因することを勘案すれば、サプライチェーンの代替地として注目を集めた同国への見方が変化する可能性はある。また、足下のインフレ率は商品高の一服により鈍化しており、中銀は昨年にドン安阻止に向けて利上げを余儀なくされたが、年明け以降は 3 月以降 4 ヶ月連続で利下げに動くなど景気下支えの動きを強める。しかし、コアインフレは高止まりするなか、電力不足に対応した石炭の輸入増の動きは対外収支の悪化や財政悪化を招くなど新たなリスクもはらむ。電力不足という一つの事象をきっかけに今後は同国経済に対する見方が大きく変わる可能性にも注意が必要になると考えられる。

ここ数年の世界経済においては、米中摩擦の激化を機に、2000 年代以降の世界経済がグローバル化の動きを進めてきた流れが逆行することにより、世界経済のいわゆる『デカップリング(切り離し)』の動きが広がることが懸念されてきた。なお、2000 年代以降の世界経済ではグローバル化の進展を受けて世界的にサプライチェーンの最適化が図られ、低廉で豊富な労働力を追い風に中国は『世界の工場』になるとともに、世界の市場としても存在感を高めてきた。しかし、ここ数年の中国国内における人件費高騰などコスト上昇圧力の高まりを理由にサプライチェーンの分散を模索する動きがみられたものの、コロナ禍を経て中国を中心とするサプライチェーンの構築がリスクとして意識されたことにより、そうした動きが後押しされてきた。さらに、昨年のロシアによるウクライナ侵攻を受けて、欧米などがロシアに対する経済制裁を強化する一方、中国はロシアを事実上支援する動きをみせたことも重なり、欧米などと中ロとの対立が先鋭化して、デカップリングの動きが一段と深刻化する懸念が高まった。そして、米国は地政学リスクの軽減を図る観点から、同盟国や友好国を中心とするサプライチェーンを再構築する『フレンドショアリング』を目指す動きが広がってきた。結果、こうした動きを追い風に、地理的に中国に隣接するベトナムでは欧米など西側諸国のみならず、中国からも対内直接投資が拡大しており、米中摩擦の『漁夫の利』を最も受けることに繋がってきた。この背景には、ベトナムが地理的にASEANの中央に位置していることに加え、アジア太平洋地域において広がりをみせている経済連携協定(CPTPP、RCEP)に参加するなど、地理的にも交易環境の面でも中国に代わる製造拠点としての魅力が高まりやすかったことが挙げられる。さらに、こうした環境変化も追い風に、ベトナム政府は対内直接投資の受け入れを積極化させるとともに、共産党政権による安定した政治体制の下で独自の改革・開放路線(ドイモイ(刷新))が採られてきたことも同国が投資対象としての妙味を高めることに繋がってきたと考えられる。足下においては、デカップリングによる世界経済への悪影響を警戒して、欧州を中心に『デリスキング(リスク低減)』を目指す姿勢が広がりをみせているが、地理的に中国と近いベトナムはサプライチェーンの要として生産拠点としての魅力を高めることに繋がっていると捉えられる。

図表1
図表1

しかし、こうしたベトナムに思わぬ形で『死角』が顕在化する動きがみられる。というのも、足下の同国は異常気象による熱波の影響で電力消費の大幅な増加が見込まれる一方、電力不足が顕在化しており、夏場にかけては電力システムがひっ迫する可能性が高まっている。同国においては元々、1次エネルギーの約半分を石炭火力や天然ガス・原油などの火力発電が占めるとともに、その大宗を石炭火力に依存しているほか、水力発電がこれに次ぐ3割弱を占めるといった構造を有する。昨年以降のウクライナ情勢の悪化を受けた世界的な石炭需要の拡大による国際価格の上振れの動きは、同国においても石炭の供給不足による需給ひっ迫を理由に電力不足に陥る懸念が高まる事態に発展した。一方、石炭の国際価格は昨年来の上振れの動きが一巡するなど需給ひっ迫懸念は大きく後退しているものの、足下においては同国内の石炭火力発電所の発電設備容量の4分の1程度が保守作業・修理を目的に使用出来ない状況にあるなど供給不足に陥りやすい事態となっている。さらに、このところの熱波の影響で同国北部にある水力発電所においては水位が例年を大きく下回る事態となっている上、発電設備容量の4分の1程度の稼働を余儀なくされるなど供給不足に陥る懸念が一段と高まっている。なお、ここ数年は同国においても再生可能エネルギーに対する投資が急拡大しており、太陽光発電の発電設備容量は全体の4分の1を占めるとされる。しかし、事業承認の遅れや料金設定を巡る協議の長期化、曖昧な規制・法制度などの問題が影響してその大宗が稼働出来ない状況が続いている。事実、国営ベトナム電力公社(EVN)に拠れば、昨年末時点における太陽光発電所や家庭に設置されている太陽光電池による発電容量のうち現実に稼働しているのはこの半分近くに留まっている模様であり、充分にその能力を活かすことが出来ない状況にある。また、昨年末にはG7(主要7ヶ国)をはじめとする支援国が同国の石炭依存脱却を目的に、洋上風力発電の建設に向けて総額 155 億ドル規模の支援を行うことで合意したものの、その後も同国政府は洋上風力発電に関する規制を未だ承認しておらず、度々問題とされてきた官僚主義的な政治を巡る問題が顕在化して事態が遅々として前進していないことも明らかになっている。当初の予定では今年4月までに意思決定機関を設立するとしていたものの、ここ数年の共産党・政府内では『反腐敗・反汚職』を旗印にした権力闘争の動きが激化しており、チョン党書記長への権限集中が進んでいるほか(注1)、国家主席にチョン氏の側近であるトゥオン氏が就任するなど(注2)、党内において保守派が伸長する動きがみられる。結果的に経済政策面でも統制色が強まる傾向がうかがえるほか、こうした動きが改革・開放路線の後退を招く一因になっているこ とを勘案すれば、電力不足を巡る問題解消には相当の時間を要する可能性も考えられる。足下では世界経済の減速懸念を理由に製造業の企業マインドが頭打ちしているものの、当局による節電要請を理由に生産活動が制約される動きも顕在化しており、年明け直後の同国景気は底入れの動きに一服感が出ていたことを勘案すれば(注3)、当面は一段と頭打ちの様相を強める可能性が高まっている。

図表2
図表2

世界的にみても、ここ数年は異常気象を理由とする電力不足が顕在化する動きが広がりをみせており、こうした課題を一時的な問題と捉えることが難しくなっている可能性がある。上述のように構造的な問題や政府の官僚主義システムに起因する形で電力不足が顕在化していることは、これまで米中摩擦の激化や世界的なデリスキングの動きがサプライチェーンの再構築を巡る生産拠点として同国に『白羽の矢』が立つ動きがみられたものの、そうした見方が大きく変化することも懸念される。仮にそうした動きが顕在化すれば、既に同国に進出している企業にとって事業計画の見直しの動きが広がる可能性があるほか、同国経済自体も成長モデルの見直しが必要になることは避けられない。他方、商品高の動きが一巡していることを受けて、足下のインフレ率は大きく鈍化して中銀の定めるインフレ目標(4.5%)を下回る動きをみせている。昨年は国際金融市場における米ドル高を受けた通貨ドン安が輸入インフレを招く懸念が高まったため、中銀は度々利上げを迫られる難しい事態に直面したものの(注4)、その後は米ドル高の動きが一服したことやインフレ鈍化も影響して、3月から今月まで4ヶ月連続の利下げ実施に動くなど景気減速懸念への対応を強めている。しかし、足下のコアインフレ率は依然高止まりする展開が続いており、足下では電力不足が顕在化するなかでEVNは石炭輸入を増やすなどの対応を強化していることを勘案すれば、インフレ圧力が再燃する可能性はくすぶる。仮に原材料価格の上昇が電力価格に転嫁出来ない状況が続けば、石炭輸入の増加に伴う対外収支の悪化に加え、財政負担の増大による財政状況の悪化を招くなど、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の悪化に繋がるなど新たなリスク要因が顕在化する事態も予想される。その意味では、電力不足という一つの事象に留まらず、ベトナム経済に対する見方が大きく変化する可能性をはらんでいると捉えることも出来よう。

図表3
図表3

以 上

西濵 徹


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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