タイ、不信任案否決でプラユット政権は次期総選挙に向けてまっしぐら

~政局は流動的な状況が続く懸念、バーツ相場も経済の体力低下を理由に上値が重い展開も~

西濵 徹

要旨
  • タイでは、来年3月に議会下院の任期が迫るなど政治の季節が近付いている。5月末の首都バンコク知事選でプラユット政権を支える与党連立が惨敗を喫する一方、野党が大勝を収めたことで与党連立への揺さぶりを強めた。先月に議会に提出された不信任案の行方に注目が集まったが、23日に反対多数で否決された。プラユット首相は11月のAPEC首脳会議の議長として政権基盤強化を図るとみられるものの、17党で構成される連立与党は依然一枚岩にはほど遠く、政局を巡る動きは引き続き流動的な展開が続くであろう。
  • 他方、足下のインフレ率は大きく昂進するなか、金融市場環境の変化を受けて通貨バーツ相場は調整の動きを強めている。中銀は先行きの利上げの必要性を訴える一方、景気回復の動きにバラつきがあることを理由に緩やかな利上げを志向する考えを維持している。急激なバーツ安に対する為替介入を示唆したが、外貨準備高の減少など経済の体力低下も見込まれるなか、当面のバーツ相場は上値が重い状況が続こう。

タイでは、2014年の軍事クーデターで陸軍司令官のプラユット氏による暫定政権が発足した後、2019年の議会下院(人民代表院)総選挙を経て『親軍政党』の国民国家の力(パランプラチャーラット)を中心とする連立与党が主導する形でプラユット氏が正式に首相に就任しており、民政移管を経ても事実上の軍政状態が続いている。他方、議会下院の任期は来年3月に迫るなど『政治の季節』が近付いている上、与党連立は政権発足当初から半数をギリギリ上回る水準に留まるとともに、大臣ポストなど処遇を巡るゴタゴタが表面化してきたため、野党が攻勢を強める展開が続いてきた。さらに、一昨年来のコロナ禍対応を巡ってプラユット政権は右往左往したことで反政府デモが活発化する事態となったほか、政権批判の一部は現行憲法上不可侵とされるワチラロンコン国王をはじめとする王族に向かう動きもみられた。こうしたことから、野党は議会に対して度々内閣不信任案を提出するなど揺さぶりを掛ける動きをみせてきたものの、昨年までに提出された計3回の内閣不信任案の決議に際してはいずれも連立与党の結束が確認されるなどいずれも否決された。しかし、足下の同国経済はコロナ禍からの回復が道半ばの状況が続く一方、ウクライナ情勢の悪化に伴う供給不安により幅広い商品市況は上振れするなど世界的にインフレ圧力が強まっており、同国でも生活必需品を中心にインフレが顕在化するなど景気回復の足を引っ張ることが懸念される。こうしたなか、5月末に実施された首都バンコク知事選では『タクシン派』の最大野党・タイ貢献党が事実上支援した候補が圧勝する一方、最大与党・国民国家の力が事実上支援した現職が大敗を喫するなど、プラユット政権及び与党連立に厳しい結果となった。さらに、連立与党内でのゴタゴタが再び表面化したこともあり、野党は先月に首相や閣僚、副大臣など計11人に対して経済政策の失敗や汚職疑惑、権力乱用などを理由とする不信任案を提出するなど、来年に迫る次期総選挙に向けて再び揺さぶりを掛ける動きをみせた(注1)。なお、国民国家の力では昨年に提出されたプラユット首相に対する不信任案の決議を巡る造反を理由に、今年1月に前幹事長のタマナット氏が離党に追い込まれるとともに、その後に同氏は側近とともに経済党を結党して連立を離脱している。さらに、与党連立内の少数政党の間にも依然不満がくすぶるなかで野党は攻勢を掛ける動きをみせており、経済党の動きも含めて注目を集めた。こうしたなか、23日に不信任案に対する採決が行われ、議会下院は現在23人が欠員となるなど総投票数は477となるなか、反対票は256票と半数を上回る形で否決された(賛成票は206票)。この結果は、17政党で構成される与党連立が最終的に改めて結束を強めたことを示唆するとともに、プラユット政権にとっては次期総選挙に向けて最後の大きな試金石を乗り越えたと捉えることが出来る。また、プラユット首相にとっては今年11月に同国で開催予定のAPEC(アジア太平洋経済協力)首脳会議を議長として仕切るとともに、会議の成功を通じて政治基盤の強化を図る道筋を描くことに成功したと考えられる。4回目となる不信任案の否決を受けて、今後は来年に控える次期総選挙での政権維持に向けてプラユット政権は攻勢を強めると予想されるが、与党連立は引き続き一枚岩とは言えない状況にあるなかで先行きも政権を巡る動きは一進一退の展開が続く可能性はくすぶる。

図 1 議会下院における党派別議席数
図 1 議会下院における党派別議席数

他方、上述のように足下のインフレ率は約14年ぶりの水準となるなど大幅に加速しており、景気回復の動きに冷や水を浴びせることが懸念される。また、国際金融市場においては世界的なインフレ懸念を理由に米FRB(連邦準備制度理事会)など主要国中銀がタカ派傾斜を強めていることを受けて、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)が脆弱な新興国で資金流出の動きが強まる動きがみられる。同国は1990年代末に発生したアジア通貨危機の『発火点』となったものの、その後は構造転換を通じて経常収支は黒字基調に転じたほか、外貨準備高も積み上がるなど対外収支構造は改善してきた。しかし、一昨年来のコロナ禍による世界的な人の移動の萎縮を受けて外国人観光客数は激減したほか、このところの商品高による輸入増も重なり経常収支は赤字基調に転じるなど対外収支を取り巻く状況は悪化している。さらに、コロナ禍からの景気回復を目指した財政出動を受けて財政状況も悪化するなど、経済のファンダメンタルズは脆弱さが増しており、金融市場を取り巻く環境変化を受けて資金流出圧力が強まるなど、足下の通貨バーツ相場は調整の動きを強めている。なお、タイ中銀は景気回復を優先する政府から度々けん制を受けたことも影響して政策金利を過去最低水準に維持する姿勢をみせているものの、バーツ安圧力の高まりを受けて今月8日に急遽記者に対する説明会を実施した(注2)。説明会において同行は、足下のバーツ安について「ドル高に起因するもの」との認識を示した上で、「周辺国通貨に比べて落ち着いており、政策運営はバーツ相場の水準を念頭に置いているものではない」との考えを示した。その上で、金融政策について「足下は依然としてビハインド・ザ・カーブとはなっておらず、米国に追随する必要はない」としつつ、先行きは「政策金利を段階的に引き上げる必要はあるが、その時期は依然として検討が必要」と述べるなど、慎重な政策運営を維持する考えを示した。しかし、その後も金融市場においてはバーツ安圧力が強まるなか、中銀のセタプット総裁は22日に開催した記者会見において、金融政策について「正常化は景気回復を妨げないようにすべき」との考えを示す一方、「足下の景気動向は回復が鮮明であり、今後も回復が続く」との見通しを示すも「回復のすそ野は広くない」とした上で、「外国人観光客数の回復で観光産業の回復は予想以上のペースで回復しているが、依然として低迷が続いている」との認識を示した。その上で、先行きの政策運営について「利上げ実施はインフレ期待の安定に寄与する」とする一方、8月10日に開催予定の次回定例会合を念頭に「緊急利上げの必要性はない」との考えを示した。また、バーツ相場について「ドル高など外部要因に影響されている」との認識を示すとともに、「危機が懸念される状況にはない」とした上で、その行方について「市場原理に委ねるが過度な変動に対しては対応する」と述べるなど、為替介入を含めた対応に含みを持たせた。なお、ここ数年の対外収支の悪化に加え、為替介入も影響して足下の外貨準備高は依然IMF(国際通貨基金)が示す国際金融市場の動揺に対する耐性を示す適正水準評価(ARA)は『適正水準』の上限を上回る水準を維持しているが、一段の為替介入により外貨準備高が減少すれば同国経済の体力は蝕まれる。よって、当面のバーツ相場は引き続き上値の重い展開が続く可能性はくすぶると言える。

図 2 バーツ相場(対ドル)の推移
図 2 バーツ相場(対ドル)の推移

図 3 外貨準備高と適正水準評価(ARA)の推移
図 3 外貨準備高と適正水準評価(ARA)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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