タイ、金融市場のバーツ安圧力に「打つ手」はあるか

~政府は中銀をけん制も、その背後で長期金利は上昇するなど政策の手足を縛られるリスクも顕在化~

西濵 徹

要旨
  • 世界経済は欧米などがコロナ禍からの回復を続ける一方、中国のゼロ・コロナ戦略が足かせとなるなど好悪双方の材料が混在する。他方、足下の商品高は世界的なインフレを招くなか、米FRBなどのタカ派傾斜は国際金融市場の環境を変化させている。タイではコロナ禍を経て経常収支が赤字基調に転じている上、インフレも昂進するなか、総選挙を前にした政局混乱も重なり、資金流出が加速してバーツ安が進んでいる。中銀は政府の「けん制」に応じて金融緩和を続けているが、急激なバーツ安を受けて明日急遽記者懇談会を開催する方針を明らかにした。過去には一方向的なバーツ相場の動きに資本規制で対応して失敗した経緯がある。他方、政府は財政出動による物価対策に動く構えをみせるが、財政状況の悪化や市場環境の変化で長期金利は急上昇しており、財政負担が増大するリスクも抱える。当面のバーツ相場は波乱含みとなろう。

世界経済を巡っては、欧米など主要国がコロナ禍からの回復が続く一方、中国当局による『ゼロ・コロナ』戦略への拘泥がサプライチェーンの混乱を通じて中国のみならず、中国経済と連動性が高い新興国や資源国経済の足かせとなるなど、好悪双方の材料が混在している。他方、昨年来の世界経済の回復に加え、年明け以降はウクライナ情勢の悪化やそれを受けた欧米などの対ロ制裁強化を反映して、幅広く国際商品市況は上振れしており、世界的にインフレが強まっている。これを受けて米FRB(連邦準備制度理事会)など主要国中銀はタカ派傾斜を強めており、国際金融市場ではコロナ禍対応を目的とする全世界的な金融緩和による『カネ余り』の手仕舞いが進んで世界的なマネーフローは大きく変化しており、なかでも経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱な新興国で資金流出が加速する傾向がある。タイは1990年代末のアジア通貨危機の『発火点』となるも、その後の構造転換を経て経常収支は黒字化するとともに、外貨準備高も積み上がるなど対外収支構造は改善してきたが、一昨年来のコロナ禍を受けた世界的な人の移動の萎縮に伴い外国人観光客数は激減したほか、国際商品市況の上振れも重なり足下の経常収支は赤字基調に転じている。なお、タイはASEAN(東南アジア諸国連合)内でも製造業の集積度合いが高く、バーツ安による価格競争力の向上は財輸出を押し上げることが期待されるものの、中国のゼロ・コロナ戦略が外需の足かせとなる懸念がくすぶるなどその恩恵を受けにくい状況にある。他方、国際商品市況の上振れの動きはタイでも食料品やエネルギーなど生活必需品を中心とするインフレ昂進を招いており、バーツ安は輸入物価を通じてインフレ圧力を増幅させるなか、足下のインフレ率は約14年ぶりの高水準になり、中銀の定めるインフレ目標を大きく上回る水準となっている。このようにインフレが顕在化するなか、中銀からは物価及び為替安定の観点から金融引き締めの必要性を指摘する動きがみられたものの、先月の定例会合では政策金利を引き続き過去最低水準で据え置いており、その背景として政府からコロナ禍からの景気回復を下支えすべく金融緩和を維持すべく『けん制』する動きが相次いでいることが影響したとみられる(注1)。こうした動きは中銀の独立性に対する懸念を惹起させる可能性があるほか、同国では来春までに次期総選挙が予定されるなかで政局を巡る動きが活発化するなど政局流動化の可能性が出ており、政策運営に対する懸念も高まっている(注2)。結果、上述のように国際金融市場を取り巻く環境の変化も相俟って同国からの資金流出圧力が強まり、それに伴いバーツ安が一段と加速して足下では約5年半ぶりの水準に低下している。なお、政府内では足下のバーツ安について国際金融市場における米ドル高や人民元相場の動きなど外部要因を理由に挙げるなど静観する構えをみせる一方、中銀は急遽明日(8日)に記者向けに政策金利とバーツに関する説明会を実施する方針を明らかにしている(次回の定例会合は8月10日に開催予定)。こうした背景には、上述のように中銀に対して政府から利上げ実施に対するけん制の動きが強まる一方、市場で広がる懸念の払しょくに向けて何らかの対応を迫られたものと捉えられる。ただし、タイ中銀は過去に金融市場におけるバーツ相場の一方向的な動きのけん制を目的に事実上の資本規制に舵を切ったものの、結果的にそうした措置が嫌われて資金流出が加速してバーツ安が進んだ経緯があるなか、市場では同様の措置に動くことが警戒されている。他方、政府は次期総選挙を見据える形で財政出動による物価抑制策に動く方針を示しているが、一昨年来のコロナ禍対応を目的に数度に亘る景気下支え策に伴い財政状況は悪化している上、足下の金融市場環境の変化も重なり長期金利は大きく上振れしている。こうした状況でのさらなる財政出動は長期金利の一段の上振れを通じて財政負担を増大させるリスクも高まっており、先行きについては政策運営の手足を縛ることも考えられる。総選挙を前に野党は与党に対して攻勢を強める動きもみられるなど、バーツ相場を巡っては一段と動きが激しくなる可能性も予想される。

図 1 インフレ率の推移
図 1 インフレ率の推移

図 2 バーツ相場(対ドル)の推移
図 2 バーツ相場(対ドル)の推移

図 3 長期金利(10 年債利回り)の推移
図 3 長期金利(10 年債利回り)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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