岸田文雄新総裁の経済政策

~アベノミクスからどのように軌道修正するか?~

熊野 英生

要旨

自民党の新しい総裁として、岸田文雄氏が選ばれた。その政策は、微妙にアベノミクスとは異なる。まず、分配を重視する点は違う。これは、アベノミクスの弱点を是正しようとする狙いがあるからだ。賃金上昇と非正規の正社員化は、今まで成果が表れにくかった問題だけに、今後、実績を上げることが難しい課題だ。

岸田氏の政策の骨子

9月29日の自民党総裁選挙では、前政調会長の岸田文雄氏が勝利した。これで、事実上の次期首相が決まった。総裁選挙を通じて、岸田氏が唱えた経済政策の骨子をまとめると、次の3つになる。

(1)分配重視。令和版所得倍増計画を掲げる。格差是正、賃上げ、中間層の復活に取り組む。

(2)経済成長のためのデジタル化推進。地方のデジタル化を意識したデジタル田園都市構想。

(3)積極財政を主導。年内に数十兆円の財政刺激を計画。

岸田氏の勝利は、アベノミクスを推進してきた人々の支援を強く受けているので、一見するとアベノミクスの路線継承に向かうとみられている。しかし、細かい部分では路線修正を行いたい意図もあるようだ。岸田氏自身は、「小泉政権以来の新自由主義的政策からの転換」という言葉を使っている。その背後には、アベノミクスからの修正をしたいという願いも込められているのだろう。

この新自由主義の転換とは何かと言えば、企業重視・成長一辺倒の発想を変えるということだろう。成長が企業部門を中心に行われれば、その恩恵が自然と家計などに及ぶというのはトリクルダウンの発想だ。分配は自然に任せておけばよいというのが新自由主義だ。

2013年以降のアベノミクスの下、日本経済には、トリクルダウンは必ずしも十分に働かず、企業の金あまりが問題視された。賃金上昇が不十分だから、「分配なくして次の成長なし」も、岸田氏が強調する言葉だ。アベノミクスでは、本物の好循環が生み出せなかったではないかという批判がにじんでいる。これに対して、菅首相は、最低賃金の引き上げを推進した。岸田氏からみれば、これもまだ不十分だったということになる。

やはり、ベースアップ率が上昇することでしか、平均賃金は大きく上がらない。賃上げが安定的に起こってこそ、分配メカニズムも機能したと言える。この考え方には筆者も100%同意する。また、賃上げを積極化させることこそ、デフレ脱却を成功させる鍵だ。金融政策一本槍だけではダメだ。

さらに、格差についても、アベノミクスの弱点だとされる。雇用が増えても、非正規労働者ばかりだと家計の総所得は増えにくい。非正規労働者には、正社員との待遇格差が不満として残る。岸田氏が「分配重視」を強調する理由には、そうしたアベノミクスの弱点を自分ならば改善できるという気持ちがあるのだろう。

所得倍増計画は成功するか?

令和版所得倍増計画は、宏池会の創設者である池田隼人首相の所得倍増計画になぞらえたものだろう。分配重視をかたちにしたものが、この政策方針であり、岸田氏の看板政策と言っても良い。2020年の民間給与平均は433万円(国税庁「民間給与実態統計調査」)だから、それが866万円に増えるという計算になる。

素朴に考えると、どのくらいの期間で私たちの所得は2倍になるのだろうか。単純計算では、毎年5%の賃金上昇率で15年間を要する。7%ならば11年、10%ならば8年、15%で5年はかかる。実際に電卓をたたくと、倍増計画がかなり高いハードルであることがわかる。財務省「法人企業統計」(2020年度)では、労働分配率は71.5%である。この分配率を100%にしても総人件費は1.4倍にしかならない。このことは、付加価値を引き上げなくては、家計所得を2倍にできないことを示している。

具体的な方策として、岸田氏が提唱するのは、法人税減税を梃子に賃上げをする手法だ。このアイデアは、河野太郎氏と高市早苗氏も提示している。しかし、この政策は、2013年から現在まで所得拡大促進税制という名称ですでに推進されているものでもある。残念ながら、2013年以降の賃上げ率は、それほど大きなものではなかった。従来の法人税の減税は、賃金増加額の15~25%を還元するものだった。より大胆な賃上げを促進するには、もっと還元率を大幅に引き上げることが必要になる。

さらに、非正規化を改善させるための正社員化も難しい課題だ。社会保険料の負担が原因になって「130万円の壁」があることが知られている。つまり、社会保障改革なしに、非正規化は是正できない。おそらく、岸田氏は、「勤労者皆社会保険」を提唱しているので、それは社会保障改革を通じた正社員化の効果をも狙っているのだろう。

デジタル化のチャンス

成長戦略として、岸田氏はデジタル化を唱える。すでに、デジタル庁が設立され、行政のデジタル化が本格的に推進されようとしている。そうした菅政権の取り組みを連続させることは歓迎できそうだ。岸田氏の独自性は、そうした行政のデジタル化を地方にも波及させようとしている点だ。「デジタル田園都市構想」は、大平正芳首相の田園都市構想と名前を重ねて、東京など大都市ばかりではなく、地方都市でも大都市並みにデジタル・ツールを使って仕事ができるように、インフラ整備を進めようという構想だ。このプランは2020年秋の選挙戦でも岸田氏が掲げていたが、2021年はそれがより現実味を帯びたと考えられる。コロナ禍では、役所でもテレワークが広く実施されたし、民間企業の中には東京都心に居る必然性がないと拠点を地方に移したところもある。また、オンライン診療やオンライン教育も過去1年間でより普及した。構想よりも現実が一歩進んで、流れがつくられた感がある。今後、岸田氏は、医療・教育など政府も関与が大きい分野で、さらに遠隔サービスの活用を広げられるか、その手腕が問われる。

こうした改革は、菅政権下で河野太郎氏が腕を奮ったことが思い出される。岸田氏は、デジタル化を進めるに当たり、突破力のある人物を任命して、従来型取引慣行や既成概念と戦う必要がある。筆者は、過去1年に現実が進み、河野氏がハンコ廃止等で腕を振るうなど実績を築いてきただけに、改革の機運はより高まったとみている。

積極財政の行方

岸田氏が「数十兆円の財政出動」に言及したときは少し驚かされた。岸田氏は、どちらかと言えば、財政再建を重視する人物だと思われてきたからだ。すでに、繰り越された30兆円の補正予算があるので、それに追加して年内のうちに大型経済対策を計画するつもりなのだろう。

ただし、それは感染対策を十分に成功させた後になるだろう。例えば、今、GoToトラベルを大規模に実施しようとしても、反対論がまだ根強くあるに違いない。おそらく、当面は、行動制限の緩和を10・11月と進めて、それが支障なくできることが条件になる。大型経済対策は、その次の段階で実施することが可能になる。

さらに、現在、従来型の公共事業が必要かと言えば、その優先順位は高くないと考えられる。コロナ禍で徹底的に打撃を受けているのは、飲食・宿泊など個人向けサービスだ。彼らを救済することが先決だ。そのためには、未消化の補正予算のGoTo事業などを実施することが望まれる。

また、経済立て直しを考えるときには、インバウンド需要の回復を早めに議論し始めることも大切だ。観光産業をGoTo事業で支援したとしても、コロナ前のように多数の訪日外国人が来てくれなくては需要の平常化はできない。財政出動の規模を論じるよりも、需要が必要とされる分野に的確な支援を十分に打てるかどうかが問われる。

岸田氏の政策方針では、財政再建の必要性を忘れなかったことも特徴として挙げられる。しかし、岸田氏は消費税は10年上げないとも発言しており、そう簡単に財政再建ができないことも覚悟しているようだ。財政再建のセオリーは、長期安定政権でなければ、増税を軸にした財政再建ができないということだ。従って、当面は財政拡張も辞さない構えを採っているのが現在の岸田氏のスタンスであろう。

金融政策の正常化

過去に岸田氏は、金融緩和の出口に言及したことがある。ゼロ金利・マイナス金利に苦しんでいる事業者の間では、「岸田氏ならば、出口戦略を実現してくれそうだ」という期待感があると思う。しかし、この問題を現時点で岸田氏に問うと、きっと『成長なくして出口なし』と返答するだろう。財政再建と同じく、出口戦略の優先順位は、成長戦略の後になるだろう。岸田氏が、衆議院選挙で勝利して、さらに2022年7月の参議院選挙でも勝利を重ねて、長期政権になった後で、金融政策の出口は見えてくると予想される。

日銀と政府との関係は、今後変わっていくチャンスはある。岸田氏は、成長と分配の好循環をつくるために「新しい日本型資本主義」構想会議(仮称)を設置する予定である。その中に日銀総裁も入れば、日銀との意思疎通はより深まると考えられる。日銀が成長加速にもっと積極的にアイデアを提言すれば、その結果、出口も近づく。従来の黒田総裁は、金融政策の範囲を越えて経済問題に言及するのに消極的だった。その黒田総裁も、任期が1年半を残すのみになった。だから、日銀は岸田政権が長期政権になった後は、次の総裁になってから、従来とは異なる路線で出口を検討することができると予想される。

試金石は、審議委員の人事だ。脱リフレの人選ができるのだろうか。次に来るのは、鈴木人司氏と片岡剛士氏の任期満了(2022年7月)である。この人事で、岸田氏の意向がどう働くかをみてみたい。

熊野 英生

熊野 英生

くまの ひでお

経済調査部 首席エコノミスト
担当: 金融政策、財政政策、金融市場、経済統計

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