インドは中国を超えるのか インドは中国を超えるのか

タイ、カンボジアとの和平合意停止、事態は再びこう着化する懸念

~当面は仲介役のマレーシアや米国の対応に注目、地域情勢が再緊張する可能性も懸念される~

西濵 徹

要旨
  • タイとカンボジアの国境地帯では、5月末に両軍が一時交戦するなど緊張が再燃した。係争地のプレアヴィヒア寺院遺跡を巡っては、ICJ(国際司法裁判所)がカンボジアの領有権を認めた後も、同地以外に国境未画定地域が残っており、両国は「棚上げ」状態を維持してきた。
  • しかし、タイで一昨年の総選挙後に誕生したタクシン派中心の大連立政権がカンボジアに配慮する姿勢を示し、国内で反発が強まるとともに、両軍の挑発行動が活発化した。今年5月に再び武力衝突が発生した。国境紛争を機にした政権混乱のなかでペートンタン前首相は失職し、アヌティン氏が新首相に就任した。
  • アヌティン政権は経済回復と国境再開を急ぐ一方、ナショナリズムの高揚と保守派の圧力の板挟みにあり、外交方針は揺れている。マレーシアや米国の仲介により停戦合意や和平合意が図られ、重火器撤去や捕虜解放に向けた動きがみられたが、10日に地雷による負傷事件を受けてアヌティン氏は和平合意の履行を一時停止すると発表した。自身の失言による批判の挽回を狙った政治的な判断との見方も出ている。
  • 一方、カンボジアも強硬姿勢を崩さず、両国は膠着状態にある。両国国境付近にある別の寺院を巡る帰属問題も未解決であり、停戦合意は極めて不安定とみられる。今後の行方は、仲介役のマレーシアやトランプ米政権の対応に掛かっているとみられるほか、これをきっかけに地域情勢が再緊張することも懸念される。

タイとカンボジアの国境地帯では、今年5月末に両国軍が一時交戦状態に発展するなど、緊張が高まった。タイ北東部ウボンラチャタニ県とカンボジア北部プレアヴィヒア州が隣接する係争地では、過去に数回武力衝突が繰り返された歴史がある。カンボジアによるICJ(国際司法裁判所)への提訴を経て、プレアヴィヒア寺院遺跡とその周辺の領有権はカンボジアに認められる一方、その他の国境未画定地域については両国の協議が行われた。しかし、タイでは、いわゆる『タクシン派』と『反タクシン派』による政局対立が続くなか、当時のタクシン派政権はカンボジア政府の主張に沿う見方を示す一方、反タクシン派や国軍はこうした見方に反発してきた。こうした事態も影響して、係争地では2008年から両軍による断続的な武力衝突が発生したが、その後ICJはカンボジアの領有権を認めた上で、両軍の即時撤退を命じる判断を下した。その後、両軍は2012年から撤退を開始し、軍事衝突は一旦終結するとともに、現状維持による事実上の『棚上げ』状態が続いた。

しかし、タイでは、一昨年の総選挙を経てタクシン派を中心とする政権(セター、ペートンタンの両政権)が発足したが、その枠組みはタクシン派と親軍派、反タクシン派の大連立で構成された。こうしたことから、政権内の主導権争いをきっかけにカンボジアとの国境問題に再び焦点が当たった。セター元政権は、かつて両国政府が合意した国境未画定海域での合同資源開発計画の復活を目指したが、カンボジア政府の主張に沿う方針を示したため、結果的に反タクシン派が反発した。そして、タイ国内の動きを受け、カンボジア側も態度を硬化させた結果、年明け以降は係争地周辺で両軍の挑発行動が活発化するなど、緊張が高まる動きがみられた。こうしたなか、今年5月末に双方の挑発行動が一段と激化し、両軍が一時的に交戦する事態に発展した。交戦そのものは約10分で終息したが、その後は双方を非難する泥沼の様相を呈するとともに、すべての国境検問所が閉鎖されたほか、軍事面で圧倒するタイ国軍が軍事行動の本格化を示唆するなど緊張状態が高まった。

さらに、その後、タイではこの問題をきっかけに政権交代に発展した。タイのペートンタン前首相は、事態打開に向けてカンボジアのフン・セン上院議長(前首相)と非公式で電話会談を行った。しかし、その際にペートンタン氏はフン・セン氏に遜る姿勢を示すとともに、タイ国軍高官を批判する発言を行った旨をカンボジア側が流出させた。これを受けて、タイ国内ではペートンタン氏への批判が高まった。その結果、元老院(議会上院)が倫理違反を理由にペートンタン氏の解任を求める請願書を提出し、憲法裁判所はこれを受理するとともに、審議の後に8月末に失職した。そして、9月の人民代表院(議会下院)での首班指名選挙を経てアヌティン氏が首相に就任し、2代続いたタクシン派政権は下野した。アヌティン政権を巡っては、政権発足への政党間合意に基づく形で来年3月ないし4月上旬に総選挙を実施する時間的な制約に直面するなか、早期の景気回復実現に向けて、カンボジアとの関係修復や遅延する国境再開が急務となる。一部の試算では、国境封鎖による経済的な損失は毎月140億バーツ(GDP比0.1%)に達するとされる。その一方、タイ国内では国境問題をきっかけにナショナリズムが高まり、カンボジアに対する強硬姿勢を後押しする向きもみられ、アヌティン氏は王室支持色の強い保守派との繋がりが強いなか、経済と外交のバランスを取る難しい対応を迫られている。

なお、タイ国内における政局混乱の背後では、今年のASEAN(東南アジア諸国連合)議長国であるマレーシアによる仲裁のほか、トランプ米政権と中国も加わる形で停戦協議が進められた。結果、7月末に両国による停戦合意が発効するとともに、両国はASEANによる監視団を受け入れることで合意したほか、国境問題を協議するなど事態打開に向けた取り組みが進められた。一方、その後も国境地帯に埋められた地雷によりタイ軍関係者が負傷したことをきっかけに、局地的に軍事衝突が発生するとともに、双方が非難合戦を演じるなど緊張状態が再燃する懸念がくすぶった。しかし、仲裁するマレーシアのほか、米国による積極的な関与も奏功する形で、先月末に開催されたASEAN関連首脳会合に合わせて両国は和平合意に調印した。和平合意ではASEAN監視団の下での国境地帯からの重火器撤去、タイによるカンボジア人捕虜の解放、虚偽情報の拡散防止などが盛り込まれ、今月初旬には重火器の撤去が開始されたほか、捕虜解放の日程に関する詰めの協議も開始された。

こうしたなか、タイのアヌティン首相は10日、カンボジアとの和平合意の履行を一時停止する方針を明らかにした。アヌティン氏はその理由について、タイ軍の兵士が国境付近で地雷を踏んで負傷したことを挙げるとともに、状況が明らかになるまで和平合意の履行をすべて停止するとした上で、安全保障上の脅威が小さくならない限り、緊張緩和に向けた行動を取らない方針を示した。一方、アヌティン氏が一転して強硬姿勢に動いた背景には、先月末のASEAN関連首脳会議における同氏の『失言』の失地回復を目指したとの見方もある。アヌティン氏はカンボジアとの雪解けを演出すべく、両国がともに相手領土を侵略した旨の発言を行ったとされるが、タイ政府は一貫して紛争地域はタイ領であるとの立場を堅持しており、この発言が原則を否定したとしてタイ国内で批判が高まった。上述したように、アヌティン氏は経済政策と外交政策で『板挟み』状態に直面している上、来年に予定される総選挙後の政権維持に向けて立て直しが急務となっており、ナショナリズムに訴えた可能性がある。一方、カンボジアも国境封鎖は自国経済に有利になるとの考えを示すなど強硬姿勢を維持しており、両国が互いに意地を張り合う事態が続く可能性も予想される。

また、一連の紛争をきっかけに両国の間には新たな火種も生じている。タイ東北部のスリン県とカンボジア北部のオッダーミエンチェイ州の国境地帯にある寺院を巡っては、紛争前は両国が共同管理してきたものの、紛争以降はカンボジアが実効支配する状況が続いている。タイ側は、緊張緩和に向けた協力の重要性に理解を示しつつ、寺院の帰属をめぐる問題が解決するまでは国境の往来の再開も議論しないとの考えをみせてきた。一方、カンボジア側も国境再開を要望することはないとの考えを示すなど、協議の難しさが露になる動きもみられた。こうしたことから、先月末に米国の圧力も追い風に停戦合意には至ったものの、極めて綱渡りの合意であったと捉えられる。今後の行方を巡っては、協議を仲介したマレーシア、そしてトランプ米政権の出方に左右される可能性が考えられるものの、トランプ氏自身が「一旦終結した」と理解したこの問題に対する関心を維持しているかは見通しにくい。その意味では、両国関係のこう着化が続くことにより、地域情勢が再び混とんとする可能性にも注意を払う必要がある。

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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