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GDP600兆円は誰のものか?

~物価上昇に食われる購買力~

熊野 英生

要旨

政府の経済見通しだと、2024年度に名目GDP600兆円を突破する。四半期の季節調整値では、2023年10-12月期か、2024年1-3月期に600兆円を超える。しかし、これで国民がハッピーになっているという実感はない。なぜならば、名目GDP600兆円の膨張は主に物価上昇によってもたらされているからだ。実質成長は、生産性の上昇によって牽引される。

目次

600兆円は目前

2024年度の政府経済見通しでは、実質成長率1.3%、名目成長率3.0%となった。筆者が注目するのは、名目3.0%成長の達成で、いよいよ日本の経済規模=名目GDPが615.3兆円と、600兆円台に突入することだ。かつて安倍政権が600兆円を目指すと言っていた目標が実現する。本稿では、このことについて、その内容を吟味してみたい。

少し驚くのは、1年手前の2023年度の名目成長率(実績見通し)が5.5%※もの高成長になると予想されていることだ(実質1.6%、デフレータ3.8%)。物価上昇圧力は、2023年度中に大きく経済規模を嵩上げしていることがわかる。2023年7-9月期の名目GDPは季節調整値で595.0兆円に達する。おそらく、2023年10-12月期か、2024年1-3月期か、には600兆円に到達すると予想を立てることができる(図表)。これは、以前に筆者が想定していたよりも、前倒しでのタイミングの実現となる。

図表1
図表1

※5.5%成長は、過去1990年度(旧基準の2015年基準)の8.3%成長以来の高い伸び率になる。

焦点は、こうしたマクロの変化が、国民の生活実感として「豊かになった」と受け取られるかどうかにある。就業者1人当たりの名目GDP=名目所得は、2022年度842.0万円、2023年度885.3万円、2024年度910.3万円と飛躍的に増えていく。この2年間で名目所得が8.1%と大幅に増える計算だ。しかし、たとえ名目所得が増えたとしても、それをみて素直に喜ぶ人はほとんどいないのではなかろうか。なぜならば、名目所得の増加とともに、物価上昇によって生活コストが上がり、購買力ベースでは豊かさの向上をほとんど感じないからだ。誰も600兆円時代を喜ばないというのならば、政府は一体何のために2%を上回る物価上昇を演出するようなことをしているのだろうか。本来は、労働生産性を高めて、1人当たりの実質所得=購買力の向上を目指すべきだったのではあるまいか。ここには、デフレ時代の残滓(ざんし)として根強く残っているリフレ政策がもたらした弊害が、政府関係者に疑われることなく放置されてきていることがある。岸田政権も、過去からの遺産を信じ込んでいる意味では、デフレ時代の発想からまだ抜け切れてように思える。

物価上昇に食われる所得

具体的にどのくらい所得の増加は物価上昇に食われてしまうのかを計算してみた。政府は、2022年度の名目GDP566.5兆円が、2024年度は615.3兆円まで増えると見込んでいる。両者の差分は+48.8兆円になる。このうち、実質GDPの増加は+16.2兆円(33%の寄与)、物価上昇要因は+32.6兆円(67%の寄与)となる。成長するように見えて、2/3の増加分は物価上昇に食われている。

この図式は、家計消費では一段と顕著だ。民間最終消費は、2022年度から2024年度にかけて+20.6兆円も増える。それなのに、実質消費は+3.8兆円(19%の寄与)しか増えない。残りの81%は物価上昇に食われる。実質消費の伸びの乏しさにより、家計は豊かさを感じないだろう。

むしろ、伸びているのは実質輸出の方だ(+4.9兆円)。輸出企業は、海外で価格転嫁を進め、さらに輸出数量を伸ばしている。輸出数量を増やして稼いだ利益が、物価を上回るような勢いで賃金上昇へと波及していかないから、家計の実質消費が増えにくいという見方もできる。この話は、これまで言われてきた好循環の進展がまだ不十分だという議論とも重なる。

好循環で良くなるか?

筆者は、名目GDPを600兆円まで膨らませれば、景気が良くなり、国民が喜ぶという発想が間違っていたと考える。これは、実質と名目の変化を混同させた議論だ。

まず、物価は、超低金利+円安+資源高によって上がり始めた。次に、企業は価格転嫁を進めて、企業収益を増やした。しかし、企業収益の増加が十分に賃上げのかたちで家計に還元させる必要があった。政府が唱える好循環は、企業収益が賃上げに波及することを指す。ここで問題視すべきは、企業がどのくらい賃上げをするかである。

円安・資源高で増加した企業収益をコストアップ率の分だけ雇用者に還元したとしても、それはインフレ分をスライドさせたに過ぎない。家計側からみれば、名目値は動いても、実質値はニュートラルだったということになる。本質的には、生産性が上昇しなくては、企業は実質賃金が上がるほどは分配を増やさない。好循環は、名目値を動かしても実質値=実質賃金は増やさない。政府が唱える好循環は、名目と実質の違いをあまり厳密に峻別せずに行われた議論に思える。

標準的な経済学は、その峻別について明快に答えてくれる。名目所得が増えても、実質消費は増えない。一時的に実質消費が増えるのは「貨幣錯覚」だと切り捨てる。リフレの考え方は、貨幣錯覚を利用して景気が良くなるというのが理論的支柱だ。確かに、債務問題は、インフレで価値が減価できる。しかし、フローの世界では、企業も家計も貨幣錯覚に陥りにくい。政府が唱える好循環のどこに弱点があったかを考えると、家計はインフレで実質消費を増やさないという点を見落としているところだろう。何度も繰り返すが、中長期的に実質ベースの生産性が上がらなくては、実質賃金は上がらず、家計は実質消費を増やさない。

日銀はしきりに「ノルム(社会規範)」が変わったという。これも本当にそうなのか。日銀が問題にしているのは、企業の企業収益が増えたとき、インフレ分さえ賃金分配をしない傾向が是正されてきたと言っているに過ぎない。実質賃金が増えないことと、ノルムは関係ない。

結局のところ、600兆円の景気刺激が家計に豊かさを実感させない理由は、インフレ連動で賃金を増やしても、実質賃金を増やすまでには至らないという当たり前の話になる。企業は合理的に行動し、人為的にインフレにすれば景気が良くなるという錯覚には踊らなかったということだ。好循環によって景気が良くなるという話は、名目と実質の変化を厳密に区別していないからそうした議論になる。実際のところ、企業も家計も、合理的主体だから、実質値がどうなるかを問題視している。経済規模が600兆円になっても、「それはインフレで名目値が水増しされているだけでしょう」と誰もが直感している。600兆円への増加は、自分のものではないのだ。

熊野 英生


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