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実質賃金をプラスにするために

~誰がスカートの裾を踏んでいるのか?~

熊野 英生

要旨

実質賃金をプラスにするには何が必要か。賃上げを追求しても、物価上昇率が高すぎると、実質賃金のプラス転化は難しい。日銀が「安定的に2%を上回る物価上昇」を追求すると、結果的に3~4%の物価上昇が放任されて、賃上げが物価上昇に追いつけなくなる。

目次

第二次石油危機の教訓

岸田首相は、政労使会議を通じて、2024年度も高い賃上げ率の実現を経済界に求めている。目指すのは、物価上昇率を上回って、実質賃金の伸び率をプラスにするような高い賃上げ率である。

残念なことに、実質賃金の伸び率は2022年4月からマイナスが続いている(図表1)。同時に、GDP統計の前期比でも、2023年4-6月、7-9月ともに実質消費がマイナスになっている。やはり、物価の重石が大きく実質消費のプラスが見込めない。

図表1
図表1

筆者は、かつてインフレ率が高かった時期の実質賃金の変化を調べてみた。データは、第二次石油危機(1979~1983年)が起きた1980年前後の物価・賃金の推移である(図表2)。厚生労働省「毎月勤労統計」の長期時系列データが従業員30人以上の区分で遡れる。

図表2
図表2

第二次石油危機は、1979年のイラン革命で産油国イランの原油生産が削減され、OPECが原油価格を段階的に引き上げたことに端を発する。日本の消費者物価も、1980年は7~8%台まで上がる。実質賃金の伸び率は、さすがに1980年中はマイナスだった。それでも、その後の1981年4月からプラスに転化していく。その背景には、消費者物価の上昇率が3~4%台に鈍化したことがある。当時、日銀は第一次石油危機の教訓もあって、金融引き締めを割と早いタイミングで実施した。1973年に3.5%だった公定歩合を1980年3月には9.0%まで引き上げて、インフレ抑制に動いた。こうした引き締めは、物価抑制に効いて、1981年以降の消費者物価の伸び率を低下させて、結果的に実質賃金をプラスにする結果を導いた。

こうした教訓からは、名目賃金の上昇率ー消費者物価の上昇率=実質賃金の上昇率の関係のうち、消費者物価の上昇率の側を押し下げなくては、実質賃金の上昇率が上向かないことがわかる。

例えば、米国でも最近は物価上昇率が鈍化したことで、名目賃金(平均時給)の伸びがそれを上回るようになってきた。2023年10月は、米消費者物価の前年比3.2%、名目賃金が前年比4.1%となり、実質賃金はプラスだ。

日本では、2023年9月は名目賃金の上昇率は1.2%で、ここから物価上昇率の3.6%(除く帰属家賃)が差し引かれて、実質賃金の下落率の▲2.4%とマイナスだ。賃金を1.2%から引き上げるだけでは限界があるので、3.6%という高すぎる上昇率を大幅に引き下げなくていけない。賃上げに加えて、物価抑制も必要になる。

日銀の過剰なインフレ容認

しばしば実質賃金をプラスにするためには、労働生産性(実質値)を高めることが重要だと言われる。確かに、正論である。中長期的にはその通りなのだが、この見解は一般の人々の心には響きにくい。労働生産性が上がると、物価は下がり、名目賃金を上げる余地は大きくなる。しかし、物価上昇の勢いが強いときにそれは難しい。いくら労働生産性を引き上げても、もう一方で日銀が2%を大幅に上回る消費者物価の上昇率を容認していると、実質賃金はマイナスのままだ。

日銀に課されている「安定的に2%を上回る物価上昇の実現」という縛りが、実質的に2%以上の高すぎるインフレ率を放置することになっている。日銀は、「2%を上回る物価上昇」ではなく、「安定的に2%を上回る物価上昇」とルールブックを書き換えられると、日本語の意味が2%を下回ってはいけないという内容に書き替わって、3~4%もの高すぎるインフレ率を看過する結果を引き起こす。もしも、円安が是正されて、消費者物価が1~2%まで伸び率が鈍化すれば、実質賃金はプラス転化しやすくなる。

政府は、物価対策を標榜しながら、実際は1ドル150円前後の円安に対して、日銀が金融緩和の是正を通じて円安修正に動けないように「たが」をはめている。このまま1ドル150円前後の水準が2023年度末まで続けば、円安が12月以降の輸入物価を10%ポイント以上も押し上げられる。岸田政権は、本当は植田総裁が2023年4月に就任するタイミングで、2016年1月の共同声明を見直すべきだった。物価対策と言いながら、マイナス金利の金融緩和を現状維持している矛盾があり、さらにそこに物価対策のために過剰な財政出動を行うという2つ目の矛盾が行われている。物価上昇に対して、金融緩和と財政出動で応じるというのは極めて矛盾した状態だ。

中小企業の価格転嫁問題

実質賃金をプラスにするには、名目賃金の上昇率を2~3%に押し上げる努力もやはり必要だ。毎月勤労統計の現金給与は、7~9月にかけて前年比1%台前半と弱い。夏場から中小企業の賃上げが進むことが期待されていたが、価格転嫁の広がりが実現しにくく、賃上げの原資を十分に稼げなかったとみられる。上場企業に関しては、2023年度上半期決算は好調である。賃上げ率を押し上げていくには、中小企業の価格転嫁問題が壁になっている。

日銀が円安に寛容な姿勢を採っていることは、輸入物価の上昇を通じて、中小企業にも追加的なコストプッシュ圧力を生じさせている。中小企業は、取引先から価格転嫁を受け入れてもらっても、随時仕入価格が上がっていくと、十分に利鞘を稼ぎ出すことができなくなる。円安の波は、2022年秋、そして2023年秋と波状攻撃のように押し寄せている。繰り返されるコストプッシュ圧力が、中小企業の賃上げの原資を食って、賃上げを遅らせてしまう。そうした点でも、日銀の緩和姿勢を是正することが、実質賃金をプラス転化させるためには必要条件になる。

熊野 英生


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熊野 英生

くまの ひでお

経済調査部 首席エコノミスト
担当: 金融政策、財政政策、金融市場、経済統計

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