タイ・セター政権が正式発足、経済政策重視で安定に導けるか

~タクシン派と親軍派は政策面で親和性は高いが、将来的に対立が再燃する芽は残る懸念も~

西濵 徹

要旨
  • タイでは先月、5月の総選挙の結果を踏まえた首班指名選挙が行われ、タクシン派であるタイ貢献党のセター氏が首相に就任した。新政権樹立では親軍政党を含む大連立が形成されたが、国民の間には反発が根強くある。他方、こうした動きに出た背景にはタクシン元首相の存在が影響した可能性がある。タクシン氏は先月海外逃亡から帰国したほか、今月には恩赦により減刑されるなど復権に向けた道筋が広がっている。
  • 5日にはセター新政権の全閣僚が就任宣誓を行い正式に発足した。タイ貢献党は重要閣僚をはじめとする経済閣僚を押さえて、経済政策を重視することで早期の経済立て直しを目指す意向がうかがえる。他方、親軍政党は利権に直結する閣僚を押さえるなど、一定の配慮を受けた可能性がある。タイ貢献党も親軍政党もバラ撒き政策を志向するなど政策面では親和性が高い一方、利害関係を巡って対立が再燃するリスクは残る。経済のファンダメンタルズを巡る懸念もバーツ相場の上値を抑える懸念もあり、政治のみならず経済の立て直しを果たすことが出来るか、セター新政権に寄せられる期待は決して小さくないと捉えられる。

タイでは先月、5月に実施された総選挙(議会下院(人民代表院)総選挙)の結果を踏まえた議会上下院による首班指名選挙が行われ、総選挙にて第2党となった『タクシン派』のタイ貢献党所属のセター・タビシン氏が総投票数の半分以上を獲得して新首相に選出された(注 )。タクシン派が政権の座に着くのは、2014年に発生した軍事クーデターに伴い当時のインラック政権が崩壊に追い込まれて以来であり、約9年強ぶりのこととなる。なお、タイ貢献党は議会下院において第2党であるように、単独で半数を上回る議席を確保出来ていないなか、政権樹立に際しては同党を中心に計11党による大連立を形成することで合意している。ただし、タイ貢献党は総選挙に際して親軍政党との連立を否定する公約を掲げていたため、結果的にこの公約は反故にされたものと捉えられる。こうしたことから、NIDA(国立開発行政開発研究院)による世論調査では、タイ貢献党と親軍政党などの大連立構想に対して3分の2近くが反対する考えが示されるなど、セター政権は船出から厳しい評価に晒されることが予想される。他方、このように厳しい評価が懸念されたにも拘らず、タイ貢献党が親軍政党との連立に踏み切った背景には、同党の実質的なオーナーであるタクシン元首相の存在を無視することは出来ない。というのも、タクシン氏はタイ貢献党を中心とする政権樹立が確実となったことを受け、先月22日に海外逃亡生活から帰国しており、直後に裁判所での審問を経て汚職や権力濫用などの罪による計8年の刑期を言い渡されて収監された。しかし、タクシン氏は収監直後に体調不良を理由に病院に搬送される『特別待遇』を受けるとともに、先月末にはワチラロンコンに対して恩赦を申請したほか、今月1日付の王室官報において量刑を1年に減刑する恩赦を決定事が示された。なお、恩赦による減刑に際しては、声明においてタクシン氏が高齢で健康問題を抱えることを考慮している旨が示されているほか、申請の翌日に決定がなされていることを勘案すれば、実際の刑期は一段と短縮される可能性も考えられる。その意味では、タクシン氏の本格的な復権に向けた道筋が大きく広がっている一方、特別待遇を受けている問題に加え、富裕層やエリート層といった保守層を中心にタクシン氏による大衆迎合路線を毛嫌いする向きも根強い上、上述のように大連立への反対意見が多いことを勘案すれば、逆風に晒される可能性は高いと見込まれる。こうした状況は、先月末にNIDAが実施した世論調査において、タクシン氏の帰国に対する評価は肯定(49.01%)と否定(49.92%)の意見がほぼ二分していることにも現れている。

こうした状況ながら、セター首相は首班指名選挙前に締結した計11党による連立合意に基づく形で閣僚人事を決定し、5日に新閣僚が国王の前で就任宣誓を行ったことで正式に新政権が発足した。なお、事前には政党間における閣僚ポストの割り当ては決定している一方、その調整に手間取る動きがみられたものの、タイ貢献党はセター首相が財務相を兼務するほか、副首相兼外相(バーンプリー氏)、副首相兼商務相(プンタン氏)、国防相(スティン氏)、運輸相(スリヤ氏)、観光スポーツ相(スダワン氏)といった重要ポストなど半分以上を押さえた格好である。元々企業経営者であったセター氏を巡っては、経済政策面での手腕に期待が高いなか、経済閣僚を自身に近いタイ貢献党で固めることにより、コロナ禍からの回復が周辺のASEAN諸国に比べて遅れるなかでその立て直しを優先したいとの考えを示していると捉えられる。また、中道右派政党でタイ貢献党を中心とする連立政権樹立に向けた口火を切る動きをみせたタイの誇り党(注 )も、副首相兼内相(アヌティン党首)と労働相(ピパット氏)など4閣僚を押さえるなど新政権で一定の存在感をみせる。他方、総選挙において大敗した親軍政党の国民国家の力は副首相兼天然資源・環境相(パチャラワト氏)と農業・協同組合相(タマナット氏)の2閣僚、同様に親軍政党のタイ統一党も副首相兼エネルギー相(ピラパン氏)と工業相(ピムパッタラー氏)の2閣僚を得ているものの、いずれの閣僚も非軍人が担うこととなっている。ただし、親軍政党が担う4閣僚については、いずれも利権に直結する傾向の強いポストであることから、タクシン派としては親軍政党に対して一定の譲歩を迫られたと捉えることも出来る。なお、総選挙における政権公約を巡っては、タイ貢献党も親軍政党もともに最低賃金の大幅引き上げ、現金給付の実施といったバラ撒き政策を掲げるなど親和性が高いとみられる一方、過去には貧困層からの支持が高いタイ貢献党と、反発する富裕層やエリート層との対立が激化して軍事クーデターに発展したことを勘案すれば、今後の政権運営を巡るタイ貢献党と親軍政党との対立を契機に同様の展開となる可能性は残る。今回の閣僚人事を巡っても、利権に直結する分野を親軍政党が牛耳る格好となったことにより、今後は政権内における利害関係が複雑に絡み合うなかで内部対立が表面化するなど、新たなリスクが生じることも考えられる。足下の通貨バーツ相場を巡っては不安定な値動きが続いているが、この背景には新政権が安定した政権運営を担うことが出来るか否か見定めたいとの思惑が影響しているほか、景気回復が遅れるなかで経常収支は赤字基調で推移するなど対外収支を巡る経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱さが嫌気されている可能性もある。新政権の下ではタイ貢献党も親軍政党もともにバラ撒き政策を志向しており、財政状況の悪化を招くとの警戒感がくすぶるなど経済のファンダメンタルズが総じて脆弱さを増す懸念もあり、そうした見方もバーツ相場の上値を抑えることも考えられる。その意味では、セター新政権にとっては政治のみならず、経済面でも早期に安定を図ることが出来るか、新政権に寄せられる期待は決して小さくないと捉えることが出来る。

図1 バーツ相場(対ドル)の推移
図1 バーツ相場(対ドル)の推移

図2 経常収支の推移
図2 経常収支の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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