インドネシアで進む法改正の動きに要注意

~改正刑法の実体経済への影響に加え、改正中銀法の行方は独立性を棄損させるリスクも~

西濵 徹

要旨
  • インドネシアで相次ぐ法改正の動きに注意が必要になっている。今月6日に議会が可決した改正刑法では、婚前、及び婚外交渉への厳罰化に注目が集まっているが、それ以外にも大統領侮辱罪の新設のほか、国家への反対意見や無届けでの抗議活動が禁止されるなど、報道の自由やプライバシー、人権侵害に繋がる動きがみられる。この背景には再来年2月に迫る次期大統領選に向けて政治が宗教と人種を意識した動きを強めている可能性があり、観光関連産業のみならず、対内直接投資の動きにも影響を与える可能性がある。他方、筆者が懸念するのは改正中銀法の行方であり、仮にこれが可決されれば財政ファイナンスが容易になる上、元政治家が総裁に就任することが可能になるなど金融政策への政治的影響が強まる懸念がある。一連の法改正は内容及び手続面の拙速さのみならず、その影響についても注意する必要性が高い。

インドネシアでは、法律改正の動きが経済に如何なる影響を与えるかに注目が集まっている。同国はアジア有数の観光地であるバリ島を擁する上、ジョコ・ウィドド政権は観光立国を目指して空港や港湾、鉄道、道路などの交通インフラの拡充を目指す姿勢を示してきた。しかし、コロナ禍を経て外国人観光客数は激減して関連産業に深刻な悪影響が出る事態に見舞われたものの、足下では感染一服を受けた国境再開も追い風に外国人観光客数は底入れしており、景気底入れの動きを後押しする動きがみられる(注1)。こうしたなか、今月6日に議会は改正刑法を可決したものの、改正法の適用を巡っては施行規則が前提となる上、今後施行規則が策定される予定であることを理由に向こう3年間は発効しないとされている。なお、同国の刑法はオランダ植民地時代に制定されたものとなるが、今回初めて改正が行われた格好である。改正刑法を巡っては、最高刑である死刑に対して10年間の執行猶予を義務付け、死刑囚が模範的と見做された場合に最高裁判所の意見を踏まえ、大統領令により終身刑への減刑を可能とするといった内容が盛り込まれている。他方、インドネシア国民のみならず外国人に対しても婚前、及び婚外交渉に対する罰則を従来から3ヶ月延長して最大禁錮1年としていることに注目が集まっているほか、それ以外にも大統領侮辱罪が新設され、正副大統領や国家機関に対する侮辱行為に対して最大禁錮3年としている。さらに、黒魔術のほか、国家のイデオロギーに反する意見の拡散、無届けで実施される抗議活動も禁止されており、報道の自由のほか、国民のプライバシーや人権などが侵害される可能性もあることから、国内外で批判が高まる動きがみられる。なお、改正刑法自体はジョコ・ウィドド政権1期目の末期である2019年、政権2期目入りを前に立て続けに法改正を目指す動きを加速化させるなかで一度議会に上程されたものの、学生を中心に民主化が後退するとの懸念が高まり、全土で抗議運動が発生したことを受けて最終的に先送りされた経緯がある(注2)。こうした経緯にも拘らず議会が法改正の動きを加速化させた背景には、同国では2024年2月に次期大統領選、及び国民議会(議会下院)総選挙が行われることが予定されるなど『政治の季節』が着実に近付いていることが影響している。現職のジョコ・ウィドド氏は現行憲法において連続での3選が禁止されるなど出馬出来ないなか、現時点において次期大統領選への出馬に意欲をみせているのは、アニス・バスウェダン前ジャカルタ州知事のほか、2014年と2019年の大統領選においてジョコ・ウィドド氏に敗れて『3度目の正直』を目指すプラボウォ・スビアント国防相、ガンジャール・プラノウォ中ジャワ州知事の3人の名前が挙がっている。なお、アニス氏は2017年のジャカルタ州知事選において『宗教色』及び『民族色』を強く打ち出した選挙戦を展開して勝利を収めたため(注3)、この結果は2019年の前回大統領選において各陣営が宗教右派を意識した選挙戦を展開するきっかけとなった経緯がある(注4)。こうしたことから、政治の季節が近付くなかで政治の舞台においてはすでに宗教、そして民族を意識した動きが顕在化しているとみられ、今後はこうした色合いが外国人観光客に依存する観光関連産業のみならず、外資系企業による対内直接投資(FDI)の行方にも悪影響を与えかねないことに注意する必要がある。他方、改正刑法以上に懸念されるのは、先週8日に政府と議会内の委員会との間で合意され、今週中にも議会本会議に提出され議論される見通しの改正中銀案の行方である。実は、同法案も数年前から議会において検討が行われてきたものの、その内容を巡って中銀の独立性が毀損されるとともに、政策運営に対する政治介入が高まることに対して懸念が示されてきた。なお、同法案においては中銀の政策目標について、従来からの通貨ルピアの価値の管理に加えて経済成長の支援が追加されるほか、大統領が危機的事態を宣言した際には中銀が政府から国債の直接購入を認めるとしており、いわゆる『財政ファイナンス』を是認する内容となっている。同国では一昨年以降のコロナ禍対応を目的に中銀による財政ファイナンスが行われたが、『時限措置』として例外的な対応の一環として行われた経緯があるが、仮に改正法が成立すればいつでも同様の対応が行われる可能性が高まる。さらに、中銀総裁、及び理事の候補者を巡っては「指名の時点で行政官、及び、または政党メンバーであってはならない」としているものの、元政治家の就任が可能となることにより政府にとっては中銀に対して直接影響力を行使しやすくなることが予想される。足下の国際金融市場においては、米ドル高に一服感が出ていることを受けて新興国での資金流出圧力が後退しているほか、一部の新興国では資金が回帰する動きがみられるものの、同国の通貨ルピア相場は弱含む展開が続いており、一連の法改正の動きが懸念要因になっているとみられる。仮に改正中銀法が成立すれば、中銀の政策目標であるルピアの価値が毀損されるなど結果としては本末転倒なものとなる可能性があるものの、今後はこうした政策運営を巡る批判そのものも困難になることが予想されるなど袋小路に入ることも考えられる。一連の法改正の動きは、その手続面の拙速さや内容に問題があることは間違いないものの、実体経済や人々の行動に与える影響についても今後は注視していく必要性は高いと判断出来る。

図表1
図表1

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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