シンガポール、リー首相はいよいよ70歳到達も「ポスト・リー」はみえず

~「ポスト・リー」は決め手を欠くなか、同国政界は大きな転換点を迎えようとしている~

西濵 徹

要旨
  • シンガポールでは今月10日にリー・シェンロン首相が70歳を迎える。同氏は70歳までの政界引退を公言してきたが、新型コロナ禍の最中に実施された一昨年の総選挙で与党PAPの退潮が鮮明になる動きがみられた。その結果、「ポスト・リー」と目されたヘン副首相が次期首相の座から降りたことで振り出しに戻った。
  • 都市国家という特性も追い風に同国はワクチン接種が大きく進んでおり、ワクチン接種を前提に経済活動の正常化や国境再開に動く「ウィズ・コロナ」戦略を採っている。昨年末にかけて景気は底入れしてきたが、年明け以降はオミクロン株の感染が急拡大しており、景気を取り巻く状況も急変する可能性が高まっている。
  • 他方、原油高や国際金融市場を巡る環境の変化を受けて通貨当局は引き締め姿勢を強めており、今年は財政政策面でも引き締めに動く可能性も高まっている。政権内は「ポスト・リー」を巡って決め手を欠く状況が続くなか、仮にリー氏が引退すれば政界はリー一族不在となるなど大きな転換点を迎えることが予想される。

シンガポールでは、リー・シェンロン首相が今月10日に満70歳を迎える。かねてよりリー氏は首相職について「70歳までに退任する」と公言していたものの、その公言は実現されないなど同国政界は大きなうねりを迎えている。一昨年来の新型コロナ禍に際して、同国は19年ぶりとなるマイナス成長に陥るなど経済は著しく疲弊したほか、その後もワクチン接種の『優等生』とされるも度々感染拡大に見舞われる事態に直面してきた。新型コロナ禍の真っ只中の一昨年7月に実施された国会議員選挙(総議席数:104議席)では、リー政権を支える1965年の独立以降一貫して政権与党の座にある人民行動党(PAP)の得票率は過去3番目に低い61.23%に留まるなど苦戦を強いられた。PAPの議席数自体は改選後も83議席と改選前(83議席)と同じではあるものの、当該選挙においては選挙区選出議員が4議席増えていることを勘案すれば(89→93議席)、PAPは着実に退潮を余儀なくされていると判断出来る。なお、2015年に実施された前回総選挙においては、その直前に初代首相のリー・クアンユー氏が死去するなど『弔い合戦』の意味合いや建国50周年という記念年といった要素に加え、いわゆる『チャイナ・ショック』を契機とする国際金融市場の動揺や世界経済の混乱が懸念されるなかで野党の政権能力に『疑問符』が付いたことも与党PAPの追い風になったとみられる。結果、PAPの得票率は69.86%と過去最低となった2010年の総選挙(60.10%)から+9.76ptも大幅に積み増すことに繋がった。今回の総選挙については、新型コロナ禍という与党PAPにとっては政権能力の『見せ場』であったにも拘らず得票率を大きく落とした背景には、国民の間にPAPが有する権威主義的且つエリート主義的な色合いに反発が強まるとともに、与党PAP政権に対する『失望』も影響したと考えられる。このように与党PAPを取り巻く状況は厳しさを増すとともにリー氏の引退時期が迫るなか、昨年4月にはリー氏の『後継者』と目されたヘン・スイキャット副首相が兼務していた財務相の退任に加え、次期首相候補の座から降りることを明らかにした(注 )。ヘン氏はその理由に自身の『高齢』を挙げたものの、リー氏より10歳若い60歳である同氏の説明には明らかに無理があり、現実には上述の総選挙における与党PAPの退潮を受けて選挙責任者であった同氏の党内求心力が急速に低下したことが影響したとみられる。結果、リー氏は首相引退を明言してきた70歳が近付くなかで一転して引退出来ない状況に陥ったと捉えられる。

なお、同国は都市国家という特性も影響して世界的にもワクチン接種が極めて進んでいる国のひとつであり、完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は8割を上回っているほか、昨年9月には早期に接種済の人から追加接種(ブースター接種)を開始しており、足下では追加接種率も5割を上回る水準となっている。このようにワクチン接種が進展していることも追い風に、ワクチン接種を前提に経済活動の正常化を図る『ウィズ・コロナ』戦略を採っているほか、国境再開による外国人観光客の受け入れを図ることで新型コロナ禍を経て疲弊した経済の立て直しを図っている。シンガポールにおいては、昨年10月末にかけて感染力の強い変異株(デルタ株)による感染拡大の動きが強まったものの、その後は新規陽性者数が頭打ちするとともに人の移動は底入れしており、世界経済の回復を受けた貿易の活発化も追い風に昨年末にかけての景気は底入れしている。結果、昨年通年の経済成長率は+7.2%と前年(▲5.4%)から2年ぶりのプラス成長になるとともに、プラス幅は世界金融危機から回復した2010年(+14.5%)以来の高水準となっている。ただし、プラスのゲタは+3.5pt程度と試算されることを勘案すれば、実力ベースでは3%台半ば程度とここ数年と同水準に留まっていると捉えることが出来る。他方、足下では昨年末に南アフリカで確認された新たな変異株(オミクロン株)はその後に全世界的に感染が広がりをみせており、世界経済にとって新たなリスクとなることが懸念されている。なお、オミクロン株を巡っては他の変異株と比較して感染力が極めて高い一方、陽性者の大宗を無症状者や軽症者が占めるなど重症化率が低いとみられるなか、欧米など主要国を中心に『ウィズ・コロナ』戦略を維持する一因になっているとみられる。同国においても年明け以降の新規陽性者数は一転底入れしている上、足下では拡大ペースを強めて人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)は1,000を上回るなど感染爆発状態に陥っている。政府は『ウィズ・コロナ』戦略を維持しているものの、感染動向の急激な悪化を受けて足下では人の移動に下押し圧力が掛かる動きが確認されるなど、あらためて対応の難しさがうかがえる。

図 1 シンガポール国内における感染動向の推移
図 1 シンガポール国内における感染動向の推移

図 2 COVID-19 コミュニティ・モビリティ・レポートの推
図 2 COVID-19 コミュニティ・モビリティ・レポートの推

他方、このように景気を巡る動きは怪しさを増している一方、このところの国際原油価格の上昇の動きは全世界的なインフレ懸念に繋がるなか、米FRB(連邦準備制度理事会)をはじめとする主要国の中銀は『タカ派』姿勢を強めており、新型コロナ禍を経て『カネ余り』が続いた国際金融市場を取り巻く状況に加え、新興国へのマネーフローを巡る状況も変化する動きがみられる。シンガポールにおいても昨年以降インフレ率が加速しており、シンガポール通貨庁(MAS)は昨年10月に政策運営を引き締め方向に舵を切ったほか、先月にも定例会合を前に急遽一段の引き締めを決定するなど(注2)、景気を巡る不透明感がくすぶる一方で物価対応を迫られる難しい状況に直面している。さらに、今月公表予定の今年度予算案においては、GST(財・サービス税)の引き上げ時期を明示すると見込まれるなか、今後は金融政策のみならず、財政政策面でも引き締め姿勢が強まることも予想される。このように政策運営を巡って難しい状況に見舞われるなか、政権内では『ポスト・リー』として教育相のチャン・チュンシン氏(52歳)、保健相のオン・イェクン氏(52歳)、財務相のローレンス・ウォン氏(49歳)といった名前が取り沙汰されているものの、いずれの候補も『決め手』がないのが実情とされる。リー氏自身も『ポスト・リー』について「美人コンテストではなく国を導くチームを作る」と集団指導体制の構築を想定した発言を行っている模様だが、独立以来3代の政権においてリー一族(リー・クアンユー氏とリー・シェンロン氏の父子)が要職を務めてきたことを勘案すれば、リー氏が政界を引退すれば初めてリー一族の居ない政権が樹立されるため、シンガポール政界は大きな転換点を迎えることになろう。

図 3 SG ドルの名目実効為替レートの推移
図 3 SG ドルの名目実効為替レートの推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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