シンガポール、「優等生」でも気が抜けない新型コロナ対策の難しさ

~変異株による感染再拡大で行動制限に追い込まれるなど、一筋縄ではいかない展開が続く~

西濵 徹

要旨
  • シンガポールは都市国家ゆえに世界経済の動向の影響を受けやすく、新型コロナウイルスのパンデミックを受けた世界経済の減速の波に揺さぶられた。しかし、強力な感染対策による経済活動の正常化に加え、世界経済の回復も相俟って昨年後半以降の景気は底入れしており、1-3月の実質GDP成長率も前期比年率+13.13%と3四半期連続の二桁成長となった。ワクチン接種も大幅に進むなか、政府は今年の経済成長率が+4~6%になるなど、世界経済の回復を追い風に久々の高水準になるとの見方を示している。
  • ただし、アジア新興国で変異株による感染再拡大の動きが広がるなか、同国でも感染が再拡大しており、政府は行動制限の再強化を余儀なくされている。経済構造上の内需依存度の低さを勘案すれば、景気の方向性が激変する可能性は低いが、国境封鎖によるMICEの中止など関連セクターへの悪影響は必至である。行動制限の長期化は景気の足かせになるとともに、南アジア出身の労働者の足止めは建設関連や造船関連セクターでの労働者不足を通じて景気回復の重石となる可能性にも注意する必要があろう。
  • 政府が新型コロナ対策を積極化する背景には、昨年の国会議員選で与党PAPの得票率が過去3番目の低さとなるなど、国民の間で反発が広がっていることが影響している。先月には次期首相候補と目されたスイキャット副首相が辞退を表明するなど、PAP内人事も混乱している。同国は建国以来長年に亘って開発独裁が続いてきたが、その在り方そのものも変化しつつある可能性があると捉えることが出来よう。

シンガポールはアジア有数の都市国家として存在感を示しているが、それ故に世界経済や国際金融市場の動向の影響を受けやすく、昨年来の新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のパンデミック(世界的大流行)の余波が直撃した結果、昨年の経済成長率は▲5.4%と19年ぶりのマイナス成長に陥るとともに、マイナス幅は統計が確認出来る1976年以降で最大となるなど深刻な景気減速に見舞われた1 。なお、同国でも昨春以降に外国人労働者を中心にクラスター(感染者集団)が発生したため、政府は国境封鎖や事実上の都市封鎖による外出禁止措置を発動するなど、幅広い経済活動が停滞する事態に発展した。さらに、世界的な行動制限に伴う世界貿易の萎縮は、経済構造面で輸出依存度が極めて高い同国経済に深刻な悪影響を与えた。しかし、その後は当初の感染拡大の中心地となった中国で感染収束による経済活動の正常化に加え、欧米など主要国でも感染拡大の一服により経済活動の再開が進んだことで、世界経済の底入れが図られた。また、同国においても国境管理や感染者を対象とする厳格な隔離プログラムの実施といった感染抑え込み策を受けて新規感染者数が鈍化したため、政府は段階的に行動制限を緩和するとともに、感染抑制が進んだ国及び地域を対象に出入国制限が緩和されるなど幅広く経済活動の正常化が図られている。そして、政府は総額1000億SGドル(GDP比21.3%)規模の財政出動を図るとともに、中銀も金融緩和を通じて景気下支えを図るなど政策の総動員に動いている。よって、昨年後半以降の実質GDP成長率(前期比年率)はプラス成長で推移するなど景気は底入れの動きを強めるなど、内・外需双方で新型コロナウイルスの克服に向けた動きが前進してきた。さらに、足下では主要国を中心にワクチン接種の動きが広がりをみせるなか、今月23日時点における同国の人口100万人当たりのワクチン接種回数は58万回強と世界平均(21万回強)を大きく上回っており、完全接種率(必要な回数をすべて接種した人の割合)は24.62%、部分接種率(少なくとも1回は接種した人の割合)は33.61%とワクチン接種は大きく前進している。結果、年明け以降の同国経済は主要国をはじめとする世界経済の回復を追い風に外需は堅調な推移をみせているほか、ワクチン接種の進展も追い風に経済活動の正常化が進んでおり、1-3月の実質GDP成長率は前期比年率+13.13%と3四半期連続の二桁%成長となるなど底入れの動きを強めている。前年同期比ベースの成長率も+1.3%と4四半期ぶりのプラス成長となっているほか、実質GDPの水準は新型コロナウイルスのパンデミックの影響が及ぶ直前となる一昨年末と比較して+0.7%程度上回るなどその影響を完全に克服したと捉えられる。なお、政府(貿易産業省)は今年の経済成長率について+4~6%になる見通しを示す一方、中銀(通貨庁)は先月に世界経済の一段の回復を前提に経済成長率が+6%を上回る公算が高まっているとの見方を示すなど、強気の姿勢をみせている。当研究所も今月発表した最新の経済見通しにおいて、同国の今年の経済成長率は+6.0%と政府見通しの上限近傍になるとみており2 、その前提として全世界的なワクチン接種の進展などを追い風に欧米や中国など主要国を中心に世界経済の回復が進むことを想定している。

図1
図1

図2
図2

上述のようにシンガポールでは他のASEAN(東南アジア諸国連合)諸国と比較してワクチン接種が進んでいる上、強力な感染対策も追い風に新規感染者数は鈍化傾向を強める展開が続いてきた。しかし、アジア新興国においてはインドが感染力の強い変異株による感染爆発に見舞われており3 、その余波はASEAN諸国にも及ぶ動きが広がるなか、シンガポールにおいても先月以降に海外からの来訪者を中心に新規感染者数が拡大する動きがみられるとともに、チャンギ国際空港でのクラスター発生を機に市中感染が広がるなど『第3波』が顕在化している。こうしたことから、政府は厳格な新型コロナウイルス対策を発表しており、店内での飲食や3人以上の会合を禁止しているほか、映画館やショッピングモール、商業イベントは営業継続を認めるも人数制限を強化するとともに、業務は基本在宅勤務とするとともに、小中高校生を対象にすべて自宅学習に切り替えられるなど幅広い分野で行動制限を再強化している。さらに、香港との間で強制隔離期間なしに相互渡航を認める「エア・トラベル・バブル」の実施を再度延期する方針を明らかにするなど、世界有数の都市国家である同国にとっては人の移動が制限されることで経済への悪影響は避けられなくなっている。また、来月に英シンクタンクが開催を予定したアジア安全保障会議(シャングリラ会議)のほか、8月に瑞シンクタンクが開催を予定したダボス会議も中止されるなど、同国政府が積極化させてきたMICE(会議・研修、招待旅行、国際会議、展示会)の動向にも暗い影を落とす事態となっている。なお、同国の経済構造は家計消費をはじめとする内需への依存度は極めて低いことを勘案すれば、政府による行動制限の再強化を受けて人の移動に急激に下押し圧力が掛かる動きがみられるものの、世界経済の回復が進むことで外需が堅調な動きをみせる展開が続けば、景気の方向感を大きく変化するような状況は想定しにくい。ただし、政府は1-3月のGDP統計(改定値)の公表に際して先行きの景気について「セクターごとの回復ペースは想定以上にバラつきが生じる可能性がある」との認識を示した上で、「世界経済の動向が想定を上回れば上振れする一方、著しく下振れするリスクもある」として今年の経済成長率見通しを「+4~6%」に据え置くなど慎重な姿勢をみせている。感染動向を巡っては「全国民へのワクチン接種に向けた進捗を勘案すれば総じて管理可能な状況にある」とする一方、「行動制限の再強化や国境管理は関連分野に悪影響を与える」ほか、「南アジア出身の労働者を対象とする国境管理は建設関連や造船関連の労働力不足を悪化させる可能性がある」など、インド人労働者に依存する建設及び造船関連への悪影響は避けられないと見込まれる。現状は来月中旬までとしている行動制限が延長される事態となれば、幅広い内需に悪影響が伝播することで景気に対する下押し圧力が強まることは必至と言えよう。

図3
図3

図4
図4

現時点における累計の感染者数は6.2万人弱、死亡者数は32人に抑えられているにも拘らず、同国政府が積極的な感染対策に動いている背景には、昨年7月に実施された国会議員選(総議席数:104)において建国以来一貫して政権与党の座にある人民行動党(PAP)の得票率が過去3番目に低い61.2%に低迷したことが影響している。なお、選挙区割りなどの影響もあり、PAPの獲得議席数は改選後も83議席と改選前(83議席)と同じ水準となるなど国会内で絶対安定多数を維持しているものの、選挙区選出議員が今回の選挙では89→93議席に増えていることを勘案すれば、PAPが徐々に後退していることは間違いないと捉えられる。こうしたなか、先月にはリー・シェンロン首相の後継と目されていたヘン・スイキャット副首相が兼務していた財務相を退任するとともに、次期首相候補の座を降りることを明らかにするなど同国政界を揺るがす動きもみられた。この背景には、PAPが有する権威主義且つエリート主義的な色合いに対して国民の間で反発が強まっているほか、『新型コロナ禍』という未曽有の危機を背景に国民の間に安定を求める動きが広がっているにも拘らず、PAPがその『受け皿』足りえていないことが明らかになったと判断出来る。PAP内では来年にも党人事の刷新が予定されており、リー・シェンロン氏の引退もささやかれているが、建国以来長年に亘って『開発独裁』を走ってきた同国においても『定石』が通用しない状況に直面しているとともに、その在り方が大きく変化しつつあると捉えることが出来よう。

以 上

西濵 徹


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

執筆者の最新レポート

関連レポート

関連テーマ