ECBが戦略検証の結果を発表

~出口戦略の詳細は明らかにされず~

田中 理

要旨

ECBは8日に戦略検証の結果を公表し、①物価安定の定義を2%に変更し、一時的な上振れを許容する、②ユーロ圏の統一基準消費者物価指数(HICP)を今後も物価の参照指標とするが、将来的には帰属家賃を含む計数を採用する、③今後も政策金利を主たる政策ツールとするが、フォワードガイダンス、資産買い入れ、長期流動性供給オペの利用を継続する、④一般市民との対話を強化する方針を示唆するとともに、⑤気候変動の要素を金融政策運営に取り込む行動計画を発表した。来年3月末に期限を迎えるパンデミック緊急資産買い入れプログラム(PEPP)の継続・終了・継承の是非や、政策正常化に向けた出口戦略に関する言及はなく、この点は今後の理事会での具体的な討議を待つ必要がある。当初秋とみられた戦略検証の結果発表が早まったことで、出口戦略の本格検討開始も早まる可能性がある。

ECBは2003年以来となる金融政策に関する戦略検証(strategy review)を終え、8日にその結果を公表した。これは、世界的な金融危機後の実質均衡金利の低下、生産性の下方シフト、人口動態の変化などユーロ圏や世界経済を取り巻く環境変化、さらにはグローバル化やデジタル化の進展、環境持続性への脅威、金融システムの変化など、前回の戦略検証後の金融政策を取り巻く環境変化を踏まえ、金融政策の枠組みを再検証したものだ。2019年11月のラガルド総裁就任以前から実施が検討されてきたが、ドラギ前総裁時代に相次いだ非伝統的な金融政策の採用と金融政策の限界を指摘する声、ECBの政策決定プロセスの透明性や市民対話の強化を求める声を受け、ラガルド新体制発足後の2020年1月に正式に開始された。そこでは、物価指標の計測、物価安定の定義、金融政策のツール、分析のフレームワーク、金融安定、気候変動、政策対話、デジタル化、雇用環境、財政政策との協調、グローバル化、期待インフレ、生産性・イノベーション・技術進歩、シャドーバンキングといった論点について、ECBスタッフによる内部の検証作業に加えて、外部の専門家や一般市民の意見聴取を重ねてきた。コロナ危機発生による金融政策を取り巻く環境のさらなる変化や意見聴取イベントの開催延期もあり、最終的な結果の取りまとめが遅れていたが、ラガルド総裁は今年の後半中(早ければ秋まで)に結果を公表する方針を示唆していた。今年春までに予定されていた意見聴取イベントを終え、先月来、ECBの理事会メンバーが定例会合外での協議を重ねて結論をまとめ、想定よりも早いタイミングでの結果公表となった。

EU条約で定められたECBの主たる責務は、ユーロ圏の物価安定を維持することであり、今回の戦略レビューはこの点に変更を加えるものではない。また、参照する物価指標も従来同様に、ユーロ圏の統一基準消費者物価(HICP)とすることを決定した。個人消費デフレータ、変動の大きいエネルギーや食料品などを除いたコア指数、上昇率・下落率の高い品目を除外する刈り込み平均などは採用しない。ただ、住宅価格が個人の購買力や体感物価に与える影響を考慮し、将来的には住宅価格の帰属計算(持ち家を賃貸する場合に得られるであろう家賃)を含むHICPを参照物価に採用する方針を示唆している。現在、帰属家賃を含む消費者物価を計測・公表している国はユーロ圏の一部に限られ、四半期毎にしか公表されてないケースも多く、包括的かつタイムリーな物価捕捉が難しい。EUや各国の統計機関とも協議し、住宅価格の帰属計算を物価指標に盛り込むことを提案しており、各国で十分なデータが揃った段階で参照指標を切り替える方針を示唆している。データが出揃うまでの間は、帰属家賃を含む物価指標の暫定的な集計・推計データを、金融政策を判断する際の補足的な物価指標とする。

ECBは従来、ユーロ圏のHICPが「2%を下回るが、2%に近い水準(below but close to 2%)」を中期的な物価安定の定義としてきたが、これを「2%」に改め、一時的に2%を超過することを許容する形に変更する。そもそも多くの国や地域の中央銀行が、ゼロ%ではなく2%を物価安定の目標値としているのは、物価指数に統計作成上の上方バイアスがあること(基準年の費目構成に比べて値引き品の購入割合が増えるため、実際のインフレ率よりも高く算出されやすい)や、政策金利の引き下げ余地を確保するためとされる。インフレ時代に作られた従来のECBの物価安定の定義は、2%がECBが許容する物価の天井であるとの印象を与え、物価の低位安定につながっていた。だが、ユーロ圏のインフレ率は、原油高などによる一時的な上振れを除けば、ほぼ一貫して2%を下回ってきた。実質均衡金利が低下し、政策金利が下限に近づいているディスインフレの時代に、従来の物価安定の定義がそぐわなくなっていた。ECBは新たな2%の物価目標へのコミットメントが「対称的(symmetric)」であるとし、「2%からの上方への逸脱も下方への逸脱も、いずれも同程度に好ましくない」と説明している。これは米FRBが採用する平均インフレ目標(一定期間インフレ率が2%を上回ることを許容し、中期的に平均2%程度のインフレ率を目指す)ほど明確に物価の一時的な上振れを容認するものではないが、常時2%のインフレ率達成が現実的でない以上、一時的な上振れを容認するものと考えることができる。とりわけ名目金利が実効的な下限(effective lower bound)に近い場合、物価目標からの下方乖離が定着するのを避けるためには、強力かつ持続的な金融政策措置が必要となるとし、一時的な物価の目標超過を許容することを示唆している。

ECBは従来と同様に、政策金利を主たる政策手段と位置づける。加えて、金利の下げ余地が限界に近い状況に鑑み、非常時対応として導入してきたフォワード・ガイダンス(金融政策の行動指針)、資産買い入れ(量的緩和)、長期資金供給オペ(LTRO)についても、引き続き政策手段として採用する。今後も物価安定の達成に必要な場合、新たな政策ツールを柔軟に採用する可能性があることも示唆している。また、ECBはこれまで金融政策運営を判断するうえで、経済情勢に関する分析と、金融情勢・金融システムに関する分析を別々に行ってきた。毎回の理事会ではマクロ調査担当の理事(チーフエコノミスト)が経済情勢に関する分析・評価を、金融調整担当の理事が金融情勢・金融システムに関する分析・評価を行い、声明文や議事要旨でも別々に言及されていた。マクロと金融の相互連関性の高まりを反映し、今後は両者を一体的に分析する形に改め、声明文や議事要旨の体裁も変更する。さらに、金融政策やECBに対する一般市民の理解と信頼を深めることも重視するとしている。金融専門家以外の幅広い市民との対話を強化する観点から、声明文、理事会後の記者会見、月報、議事要旨の内容を見直し、一般市民を対象とする平易な表現やビジュアル化した資料で補完する。一般市民からの意見聴取イベントを今後も継続的に開催する。金融政策に関する戦略検証を定期的に行い、次のレビューは2025年を予定する。

ECBは気候変動と循環経済への移行が、物価、生産、雇用、金利、投資、生産性、金融安定、金融政策の伝達経路など様々な経済変数や、ECBが保有する資産のリスクプロファイルに影響を与えるとし、戦略レビューの重要な検討要素としてきた。金融政策の枠組みに気候変動の要素をどう盛り込むか、戦略レビューのプレスリリースとは別に、包括的な行動計画とロードマップを同時に発表した。そこでは、ECBの責務の範囲内で、EUの気候変動対策の目標と目的に沿った形で、気候変動に対応する方針を表明している。より具体的には、①気候変動とそれに関連した政策が経済や金融政策の伝達経路に及ぼす影響を考慮したマクロモデルを構築する、②グリーン金融商品・金融機関のカーボンフットプリント(温室効果ガスの排出量)や気候変動リスクへのエクスポージャーなど、気候変動に関連したリスク分析に用いる新たな統計データを作成する、③担保や資産購入の適確性要件として、環境の持続可能性に関する情報開示を要求する、④気候変動に関するストレステストを開始し、格付け機関が気候変動リスクをどのように信用格付けに組み込んでいるかの情報開示を評価し、気候変動リスクを内部格付けに組み込むための検討をするなど、気候変動リスクに対するエクスポージャーを評価する、⑤与信業務における担保の資産評価とリスク管理の枠組みに気候変動リスクを考慮に入れる、⑥社債購入の配分に気候変動に関連した基準を組み込むことや気候変動に関連した情報開示を開始するとしている。

ECBは今回の戦略検証の内容を、22日に結果が公表される次回のECB理事会から反映するとしている。中期的な物価安定の定義見直しを受け、フォワード・ガイダンスが見直され、声明文のスタイル変更や簡素化も予想される。対照的な2%の物価目標採用により、今後も長期間にわたって緩和的な金融環境を維持する方針が強化されることになろう。他方で、住宅価格や家賃は一般物価よりも上昇ペースが速く、帰属家賃の採用により消費者物価の上昇率は従来よりもやや押し上げられる可能性が高い(0.2~0.3%ポイント程度押し上げられるとの試算が多い)。正式採用はまだ先だが、この点は物価の目標と実績の乖離を埋める要因となる。今回の戦略検証ではコロナ危機下で大幅に強化した金融緩和策の出口戦略に関するヒントは得られなかった。各政策ツールの効果や副作用に関する踏み込んだ言及はなく、来年3月末に期限を迎えるパンデミック緊急資産買い入れプログラム(PEPP)の継続・終了・別のプログラムへの継承の可能性を示唆する発言もなかった。この点は今後の理事会での具体的な討議の結果を待たなければならない。ただ、当初秋とみられた戦略検証の結果発表が早まったことで、出口戦略の本格検討開始も早まる可能性がある。PEPPは従来の資産買い入れプログラム(APP)に比べて、買い入れの対象、構成、タイミングなどで柔軟な運営が認められている。PEPP終了時の金融環境の過度な引き締まりを軽減する必要があり、出口戦略は金融政策の幅広い枠組みと関係してくる。戦略検証が終了する以前の出口戦略の本格的な検討開始は考え難かった。仮に戦略検証が秋までずれ込んでいた場合、出口戦略の検討開始が遅れ、来年3月末のPEPP終了に向けた十分な地均しが出来なかった恐れがある。次に経済・物価見通しを点検する9月理事会で、出口戦略の大勢が判明するのは流石に時期尚早と見られるが、近く本格検討が開始され、秋にかけて断片的な情報が出てくる可能性がある。

以上

田中 理

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