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ECBの利下げを占う賃金動向

~新たな賃金トラッカーが示唆する利下げ開始時期は?~

田中 理

要旨
  • ECBが利下げ開始を判断するうえで最も重視しているのが賃金動向だ。ユーロ圏の包括的な賃金統計の多くは発表タイミングが遅い。ECBは個別の賃金協約の内容を即座に反映可能な賃金トラッカーを開発し、よりタイムリーな賃金動向の把握を試みている。欧州諸国の賃金協約は1〜4年の期間をカバーすることが多く、締結済みの賃金協約が示唆する将来の賃上げ動向の情報を入手することも可能だ。最新の賃金トラッカーによれば、2024年の妥結賃金は+4.5%前後で高止まりすることが示唆される。今後新たに妥結する賃金協約の内容に応じて、賃金トラッカーのピークアウトが明確化するかが、ECBの利下げ開始時期の判断を左右しよう。

エネルギー価格の押し上げ剥落と食料品価格の上昇一服を受け、ユーロ圏の消費者物価の上昇率が鈍化傾向にある(図表1)。2022年10・11月に前年比で10%を超えたヘッドラインの上昇率は、昨年10月以降、2%台で推移している。変動の大きい食料・エネルギー・たばこ・アルコール飲料を除いたコア物価も、ピーク時の5%台から足許で3%台に落ち着いてきた。ただ、ECBが中期的な物価安定と定義する2%の達成には、コア物価の一段の沈静化が必要となる。

図表1
図表1

コア物価の内訳をみると、エネルギーを除く工業製品価格が今年1月に前年比+2.0%まで上昇率が鈍化した一方、サービス価格が同+4.0%で高止まりしている(図表2)。PMIの投入・産出物価を用いた先行指標からは、財・サービス価格ともに一段の上昇鈍化が見込まれるが、紅海情勢を反映した原油価格の再上昇などを受けてやや下げ渋りの兆しもあり、なかでもサービス価格の高止まりが示唆される(図表3)。サービス物価をコスト構造に応じて賃金に敏感な費目とそれ以外の費目に分けたECBの分析によれば、賃金に敏感な費目の高止まりがとりわけ目立つ(図表4)。

図表2
図表2

このように、中期的な物価安定達成の鍵を握るのは賃金で、その動向がECBの利下げ判断の重要な要素を占めていることは、最近のECB高官発言からも窺える。ラガルド総裁は26日の欧州議会で、「現在のディスインフレ的な状況は今後も続くとみられるが、インフレ率が2%の目標に持続的に向かうと確信するための十分な証拠がまだない」、「賃金上昇圧力は引き続き強く、今後数四半期の物価動向にとって一段と重要な原動力となる」と発言した(27日のBloomberg報道)。

ユーロ圏全体の賃金動向をタイムリーに把握することは難しい。代表的な賃金指標としては、四半期毎に発表される1人当たり雇用者報酬、時間当たり雇用者報酬、単位労働コストがあるが、これらは発表時期が当該四半期が終了してから65日以降と遅く、コロナ危機時の各種の政策支援で実態が把握しづらい。例えば、財政資金で時短労働時の賃金の一部を補填する操短手当(Job Retention Scheme)の利用時は、時間当たり雇用者報酬が押し上げられ、1人当たり雇用者報酬が押し下げられる。

図表3
図表3

図表4
図表4

こうした政策支援による歪みが生じにくいのが、労使間の賃金協約に基づく妥結賃金で、ECBも今回の局面で賃金動向を把握する上で最も注目している。ユーロ圏の妥結賃金は、各国毎の妥結賃金を合成して作成されるが、国毎にボーナスや時間外手当の取り扱い、公務員を集計対象に含めるかなどが異なる。こうした国毎の集計方法の差異を部分的にせよ調整するため、一時金を除く計数と、一時金を含む計数が公表されている。妥結賃金の発表タイミングは、雇用者報酬や単位労働コストほどではないが、同様に速報性に欠ける。ユーロ圏全体の妥結賃金は四半期計数しかなく、当該四半期終了から40〜45日程度経過するまで公表されない。また、各労使間の賃金交渉は年1回や複数年に1回のケースが多く、その間のインフレ率や労働需給の動向が遅れて反映されるバックワード・ルッキングな性質を持つ。

最近、昨年10~12月期のユーロ圏の妥結賃金計数が発表され、既往ピークを記録した同年7~9月期の前年比+4.7%から同+4.5%に上昇率がやや鈍化した(図表5)。これを受け、ECBのラガルド総裁は23日、「10~12月期の賃金データに勇気づけられるが、我々が観察しているディスインフレ・プロセスが持続可能で、2%の目標に到達することをより確信する必要がある」、「1~3月期の妥結賃金データがECBにとって特に重要である」と指摘した(23日のロイター報道)。

なお、フランス、スペイン、オーストリアを中心に、ユーロ圏の賃金協約の多くは、1〜3月期に集中する。ドイツ、イタリア、オランダでは、特に決まった労使交渉のタイミングはない。ECBが1〜3月期の妥結賃金の結果を待って、利下げ開始時期を判断しようとしている背景には、賃金協約の締結時期が集中することも影響している。

図表5
図表5

ユーロ圏の妥結賃金データは、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギー、フィンランド、オーストリア、ポルトガルの9ヶ国の計数を合成して作成される。このうちフランス、ベルギー、フィンランドを除く6ヵ国の計数は月次で発表される。したがって、各国が公表する月次や四半期の妥結賃金統計を集計していくことで、ユーロ圏全体の四半期計数の着地点をある程度予想することができる。但し、9ヶ国のうち、ユーロ圏全体の3割程度のウェイトを占めるドイツの月次計数が最も遅く発表され、通常、当該計数が発表された翌日にユーロ圏の四半期計数が公表される。ドイツの月次計数の発表を待つと、速報性が犠牲になる。

労働需給の逼迫状況をより迅速に把握可能な賃金指標としては、アイルランド中銀が求人情報会社インディードと協力して作成するユーロ圏の「インディード賃金トラッカー(Indeed wage tracker)」がある。同計数はインディードのオンライン・プラットフォーム上で、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、アイルランドの求人情報のうち、賃金が把握可能なものを月次ベースで集計したもので、妥結賃金に先行する傾向がある(図表6)。但し、これはインディードの求人サイトに掲載され、新たに雇い入れる労働者に支払う賃金を集計したもので、労働者全体の賃金動向を反映したものではない。ECBによれば、特にイタリアやスペインではインディードのプラットフォーム上の求人カバレッジが低く、妥結賃金との乖離が目立つとのことだ。

図表6
図表6

こうした既存トラッカーの欠点を補うため、ECBはユーロ圏の主要国中銀と合同で、妥結賃金に関する新たな賃金トラッカーを開発し、より速報性の高い賃金動向の把握に活用している。既にECB高官の講演資料などに掲載されているが、最近その詳細を記したペーパーが公表された 。新たな賃金トラッカーは、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、オーストリア、ギリシャ7ヶ国における個別の労使交渉での賃金協約の結果を集計したもので、今後、ベルギー、ポルトガル、フィンランドを対象国に加えるための準備が進められている。対象拡大後はユーロ圏の妥結賃金データの作成時に利用される国の全てを含むことになり(ギリシャは妥結賃金の集計対象外)、現在の7ヶ国でもユーロ圏の雇用者報酬の国別シェアの87%をカバーする。欧州では業種別や会社別の団体交渉の対象となる労働者の割合が高く、賃金トラッカーはドイツ、フランス、イタリア、スペインの労働者の50%前後をカバーする(図表7)。

図表7
図表7

国別の賃金トラッカーを作成するには、対象国で妥結された各賃金協約について、①協約の開始日と終了日、②平均的な賃金を得ている労働者の賃上げ規模、③合意された賃上げ日、④協約の対象となる労働者数、⑤一時金の額と支払日の情報を過去に遡ってデータベース化する。最初の賃上げ前の12ヶ月間は賃上げがなかった(賃上げ率が前年比ゼロ%)と仮定し、各労使交渉の結果から想定される対象期間内の賃金上昇率を月次ベースで計算する。一時金に関する情報が入手可能なドイツ、イタリア、オランダについては、一時金を含む計数と一時金を除く計数を作成する。一時金は実際の支払い日ではなく、支払日から向こう12ヶ月で均等に支給されるものと見做し、月額賃金に12分の1ずつ上乗せする。こうして計算された各賃金協約の平均的な賃上げ率は、各協約がカバーする対象労働者数に基づいてウェイトづけされ、国別の平均賃上げ率が計算される。国別データはユーロ圏の雇用者報酬の国別ウェイトに基づいて加重平均され、ユーロ圏の賃金トラッカーに合成される。国別やユーロ圏の賃金トラッカーは、新たな賃金協約が締結される度に更新可能だが、今のところ定期的な対外公表はされていない。

賃金トラッカーは過去の妥結賃金の動きをかなり正確に捕捉できている(図表8)。但し、一時金を含む賃金については、妥結賃金の動きがボラタイルで、賃金トラッカーとの乖離が目立つ。これはドイツで妥結賃金データを作成する際、一時金を実際の支払日に計上しているのに対し、既述の通り、賃金トラッカーでは一時金を12ヶ月の均等割りで支給されたものと見做して計算しているためだ。一時金は通常、賃金協約の主たる構成要素ではないが、一時的な高インフレへの対応として、最近の賃金協約ではより頻繁に利用されている。賃金トラッカーは、新たに妥結された賃金協約が将来のユーロ圏全体の賃上げ率にどのように影響するかなど、妥結賃金のトレンドをタイムリーに把握するうえで有用と考えられる。

図表8
図表8

賃金トラッカーはまた、フォワード・ルッキングな賃金指標の側面も持つ。欧州諸国の賃金協約は通常、1〜4年の期間を対象とすることが多い 。今後締結される賃金協約に応じて変化する公算が大きいが、締結済みの賃金協約に基づき、向こう数年の賃上げ率がどのように変化する可能性があるかの断片的な情報が入手可能となる。新たな賃金協約が締結される度に、どのタイミングでどの程度の賃上げが行われる可能性があるかが推測可能となる。

2月8日の ECBのレポートに掲載された賃金トラッカーでは、2023年の妥結賃金が一時金を除いて+3.7%、一時金を含めて+4.2%への上昇加速が見込まれ、締結済みの賃金協約の情報に基けば、2024年は一時金を除く・含むのどちらの場合も+4.5%前後で推移することが示唆される(図表9)。つまり、現時点で入手可能な情報によれば、ECBが利下げを開始する条件は整っていない。5月中下旬に発表予定の1〜3月期のユーロ圏の妥結賃金の結果を待って、6月のECB理事会で利下げを開始するのがメインシナリオとなろう。サービス物価や賃金の高止まりが続いていることや、PMIに代表される景気の先行指標に底打ちの兆しが広がっていることも、急いで利下げを開始する必然性を低下させる。

図表9
図表9

ECBは今後、新たに締結された賃金協約によって、先行きの妥結賃金がどのように変化するかを賃金トラッカーを用いて分析し、利下げ開始時期の判断材料の1つとする可能性が高い。ECBは今のところ、賃金トラッカーを定期的に公表していない。各国の膨大な賃金協約データを集計・加工し、筆者が賃金トラッカーを再現することは難しい。ECBの公表資料や高官の講演資料などに掲載される最新の賃金トラッカーを定点観測する以外になさそうだが、妥結賃金の結果を待たずに、賃金動向を把握することが可能となる。

以上

田中 理


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

田中 理

たなか おさむ

経済調査部 首席エコノミスト(グローバルヘッド)
担当: 海外総括・欧州経済

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