タイ中銀、首相から再三の利下げ要求も現状は「静観の構え」を崩さず

~「票割れ」も基本は静観を維持、政策運営は政府のバラ撒きの影響を見極めた上で判断する見通し~

西濵 徹

要旨
  • ここ数年のタイはインフレに直面したが、商品高や米ドル高の一巡に加え、昨年誕生したセター政権が実施した補助金政策などを受けて頭打ちの動きを強めている。結果、足下のインフレ率はマイナスで推移するなど一見すれば落ち着いた推移をみせる。こうしたなか、セター首相は中銀に再三利下げを要求するなど圧力を強める一方、中銀は静観するなど両者の隔たりが拡大している。他方、足下のバーツ相場は政局を巡る混乱が懸念されるなかでも比較的落ち着いた動きをみせるが、混乱が激化すれば状況が一変する可能性はくすぶる。こうしたなか、中銀は7日の定例会合で政策金利を2会合連続で2.50%に据え置く一方、政策委員のなかで意見が割れていることを明らかにした。先行きの景気や物価の見通しを引き下げる一方、足下のインフレ鈍化を巡って需要の弱さを反映したものでないとの見方を示すなど、慎重姿勢をあらためて強調した。よって、当面は静観の構えを崩さない展開が続く一方、その後の「一手」については政権が計画するバラ撒き政策の影響を見極めた上で判断する可能性が高まっていると見込まれる。

ここ数年のタイでは、商品高や国際金融市場における米ドル高を反映した通貨バーツ安による輸入インフレの動きも重なり、インフレが大きく上振れして中銀目標を大きく上回る水準となる状況に直面してきた。ただし、同国経済は構造面で外需依存度が相対的に高い上、中国経済の影響を受けやすいことも重なりコロナ禍からの景気回復の動きが周辺国に比べて遅く、結果的に周辺国に比べて中銀が金融引き締めに舵を切るタイミングが遅れたと捉えられる。なお、この背景には同国はアジア太平洋地域のなかでも家計債務の水準が相対的に高く、利上げによる家計部門への悪影響が色濃く出やすく、インフレに直面するなかで追加的に足を引っ張る要因が重なる事態を回避したかったとの思惑もうかがえる。こうした状況ながら、中銀は一昨年8月に利上げに舵を切って以降は物価と為替の安定を目的に断続利上げに動くとともに、1年強に亘る利上げ局面において政策金利を累計200bp引き上げてきた。他方、一昨年末以降は商品高と米ドル高の動きが一巡したことでインフレは頭打ちの動きを強めてきたことに加え、昨年発足したセター政権が実施した軽油税減税や電気料金の引き下げを目的とする補助金給付なども重なり、足下のインフレはマイナスで推移するなど一見落ち着いた動きをみせている。ただし、中銀はセター政権が掲げる『バラ撒き』志向の強い公約による悪影響を警戒しており、なかでもデジタルウォレットを通じた現金給付策に伴う財政悪化が経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱性を高めることを懸念している。よって、中銀は昨年11月に利上げ局面を休止させつつ慎重姿勢を維持する一方、早期の景気回復を目指すセター首相は中銀に対して利下げを要求するなど、両者の間に政策運営を巡る隔たりが表面化する動きがみられる(注1)。なお、昨年末にかけてのバーツ相場は国際金融市場における米ドル高圧力が後退したことを受けて底打ちする動きが確認されたものの、その後は再び米ドル高が意識されていることを反映してバーツ相場の上値が抑えられる動きがみられる。さらに、足下では昨年の総選挙において躍進を果たした民主派の最大野党である前進党に対して事実上の『弾圧』の動きが強まるなど政局を巡る混乱が懸念される事態となっており(注2)、仮にデモが活発化すればバーツ相場を取り巻く環境が厳しさを増す懸念もくすぶる。他方、セター政権発足に当たっては、『タクシン派』のタイ貢献党が長年対立した親軍派政党を併せた大連立を形成したほか、その直前にタクシン元首相が帰国して首相在任中の汚職や職権濫用により8年の実刑判決を受けるも病気を理由に警察病院に入院するなど収監されず、その後も国王の恩赦により1年に減刑されるなどタクシン氏が事実上の『人質』に採られる状況にあると捉えられる。さらに、タクシン氏を巡っては今月下旬にも仮釈放される見通しが示されており、上述のように締め付けの動きが一段と強まる前進党と対照的にタイ貢献党に対する『特別扱い』が鮮明になり、政権に対する批判が強まるなどバーツ相場の波乱要因となる懸念はくすぶる。こうしたなか、中銀は7日の定例会合において2会合連続で政策金利を2.50%に据え置く様子見姿勢を維持しており、セター首相が公然と利下げ実施を要求する動きをみせるも静観する構えをみせている。なお、会合後に公表した声明文では、今回の決定に際しては7人の政策委員の票が「5(据え置き)対2(25bpの利下げ)」に分かれたことが明らかになるなど、上述のように政権からの要請も重なり意見が割れている様子がうかがえる。また、景気動向を巡っては「外需を巡る懸念が製造業の足かせとなる一方、内需に下支えされるなかで想定より緩やかな回復が見込まれる」とし、「今年の経済成長率は+2.5~3.0%になる」と前回会合時点の見通し(+3.2%)から下方修正している。一方、物価動向については「供給要因により想定を下回る推移が続く」としつつ、「今年いっぱいは+1%前後で推移するも、来年にかけては緩やかな上昇が見込まれる」とした上で「目標域への回復は想定より遅れる可能性がある」ものの「中東情勢によるエネルギー価格の動向や異常気象を受けた食料価格の動向や政府の対応を注視する必要がある」との見方を示している。一方、足下のバーツ相場について「周辺国と同様の動きをみせている」として静観する構えをみせるとともに、先行きの政策運営を巡って「適切に調整する用意はある」としつつ「足下のインフレ鈍化の動きは需要の弱さを反映したものではなく、景気減速は外的要因や構造問題に起因するもの」との認識を示すなど、慎重姿勢を改めて強調している。よって、足下のインフレはマイナスで推移するなど頭打ちの動きを強めているものの、現時点において政策委員の大宗が静観の構えを維持するとともに、政府が掲げるバラ撒き政策による影響を見極めた上で今後の対応を決定する可能性が高いと見込まれる。

図1 インフレ動向の推移
図1 インフレ動向の推移

図2 バーツ相場(対ドル)の推移
図2 バーツ相場(対ドル)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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