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サッチャー改革の終わりの始まり

~民営化された水道会社が経営難に~

田中 理

要旨
  • 英国ではサッチャー時代に民営化された大手水道会社が経営難に陥っている。巨額の投資負担や利払い負担の増加に苦しんでおり、既存株主に追加増資を求めたが、資金調達が難航している。事業再建を進めてきた最高経営責任者の突然の辞任と、政府と監督機関が国有化の可能性を検討していることが明るみに出て、関連資産の売りが加速した。再国有化の阻止を目指す既存株主が追加支援の方針を発表、追加の財政支援に否定的な政府も税金投入による水道会社の救済には慎重とならざるを得ない。来年の総選挙で政権奪取が確実視される労働党は、前回の総選挙で前党首が掲げた鉄道や公益企業の国有化の公約を撤回したが、今回の問題発覚を受けて何らかの公的関与の強化を検討する公算が大きい。サッチャー時代以来の英国の民営化モデルが軌道修正される可能性がある。

「小さな政府」による英国経済の活性化を目指したサッチャー元首相は、1970~80年代にかけて国有企業の民営化を積極的に進めた。そこでは、非効率で財政赤字を垂れ流していた国有企業は、民営化を通じて、より良いサービス提供主体となり、健全経営に脱皮すると見られていた。だが、そのサッチャー改革の遺産の1つである英国最大の水道会社(ここではT社としておこう)が現在、経営危機に瀕している。ロンドンを含むイングランド南東部の約1500万人に水道を供給するT社は、老朽設備の更新費用など巨額の設備投資負担を抱え、昨年来、株主から15億ポンドの増資を求めてきた。同社は140億ポンド余りの負債を抱えており、その半分以上がインフレ連動債とされ、このところの物価上昇と金利上昇による返済負担の増加にも苦しんでいる。これまでに同社が既存株主から調達できたのは5億ポンドにとどまり、残りの10億ポンドの資金調達が難航している。

T社は2020年に新たな最高経営責任者(ここではB氏としておこう)を迎え、8年間の事業再建計画に着手していた。だが、経営再建が道半ばにもかかわらず、B氏は6月27日に突然の辞任を発表した。T社の経営破綻に備え、政府と監督機関が国有化の可能性も検討していることが明らかとなったことも加わり、金融市場に動揺が広がった。T社の株価や債券価格が急落し、他の水道会社の株価も下落した。T社には3月末時点で44億ポンドの手元流動性があるとされ、すぐさま資金ショートに陥る訳ではないが、今回の問題発覚を受けて、追加増資がさらに困難となる恐れがある。保守党が率いる英国の現政権は、本来、サッチャー改革を受け継ぐ立場にあるが、2021年には経営難に陥ったガス・電力供給会社を国有化した前例がある。2018年の鉄道ダイヤ改正時の大混乱やコロナ禍の旅客需要減少を受け、民営化された鉄道事業への公的関与も強めている。

これまで追加増資に二の足を踏んでいた既存株主も、T社の再国有化を阻止するため、追加支援の可能性を表明している。政府にとっても、T社救済での税金投入に国民の理解が得られるかを、慎重に判断する必要がある。スナク首相やハント財務相は最近、インフレ抑制に向けた英イングランド銀行(BOE)の追加利上げ決定を擁護した一方で、物価高騰による生活困窮や利上げによる住宅ローンの返済負担増加に苦しむ国民への追加の財政支援を打ち出すことを否定した。財政支援が更なる物価高騰を招き、BOEの金融政策運営を難しくしかねないためだ。7月20日には、ジョンソン元首相と同氏に近いアダムス議員の議員辞職に伴う2つの補欠選挙が控えており、保守党は苦戦が予想される。同じく議員辞職の意向を表明したドリーズ議員の補欠選挙は、議会の夏季散会前の投票実施に必要な手続きを終えていないため、秋以降にずれ込む可能性がある。世論調査では保守党が歴史的な大敗を喫する可能性が示唆される。

英国では近年、水道管の漏水が頻繁に発生しているほか、汚水が周辺の河川や海に流れ込み、環境汚染を引き起こすなどの問題が相次いで浮上し、水道事業者が厳しい批判に晒されてきた。調査会社YouGovが昨年9月に行った世論調査によれば、回答者の63%が「水道事業を国営にすべき」と回答した(図表1)。他の水道事業者はT社ほどの巨額負債を抱えている訳ではないが、T社同様にインフレ連動債を発行し、物価や金利上昇に対して十分なヘッジをしてこなかったほか、今回の問題をきっかけに水道事業全体が再国有化されることが警戒されている。来年にも予想される総選挙では、最大野党・労働党が2010年に保守党に政権を明け渡して以来となる政権を奪還することが確実視されている(図表2)。前回総選挙で労働党を率いたコービン前党首は、鉄道や公益企業の再国有化を公約に掲げていた。次の首相就任が濃厚なスターマー現労働党党首は、再国有化の公約を撤回したが、労働党支持者の多くが国有化を支持しており(図表3)、今回の問題発覚を受けて水道事業や他の公益事業への何らかの公的関与を強めることが予想される。来年の総選挙後は、サッチャー元首相以来の英国の民営化モデルが軌道修正される可能性がある。

図表1
図表1

図表2
図表2

図表3
図表3

以上

田中 理


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

田中 理

たなか おさむ

経済調査部 首席エコノミスト(グローバルヘッド)
担当: 海外総括・欧州経済

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