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英トラス首相は退陣へ

~そして何もできなかった~

田中 理

要旨
  • 財源を伴わない大型減税で金融市場の混乱をもたらしたトラス首相は、就任から僅か44日で辞任表明に追い込まれた。24日から後継党首の選出手続きが開始され、28日までに次の首相が決まる。選出手続き短縮のため、今回の投票では立候補に必要な推薦議員の数を100名以上と厳しくし、立候補者は最大3名に絞る。党員投票前の遊説は行われず、上位2名によるテレビ討論会が1回行われる。議員投票で2名に絞り込んだ後、示唆的投票を行い、その敗者が立候補を取り止めた場合、党員投票を行わずに勝者が決まる。立候補に必要な推薦議員を確保できそうな有力候補としては、財政規律派で反トラス・反ジョンソン票を集めるスーナク元財務相、トラス首相に近い議員の支持獲得を目指すモーダント上院議長兼下院院内総務、返り咲きを狙うジョンソン前首相が挙げられる。次期首相は保守党の支持回復と党内融和を進めるとともに、財政緊縮と金融引き締め下で、物価高騰と景気浮揚を目指す必要があり、難しい舵取りを迫られる。

大型減税と規制緩和による経済活性化で「第二のサッチャー」を目指した英国のトラス首相は、政策迷走による金融市場の混乱を招いたことで党内外の信頼を喪失し、就任から僅か44日で辞任表明に追い込まれた。同氏は次期首相が就任するまで首相にとどまるが、19世紀前半に外相として活躍したジョージ・カニング首相の119日(死去に伴う退任)を上回り、英国史上最短の首相在位期間との不名誉な記録を更新した。

2010年に保守党のキャメロン首相が13年振りに労働党から政権を奪取して以降、2016年のEU離脱の是非を問う国民投票の直後に就任したテレーザ・メイ首相、離脱実現を掲げて就任したボリス・ジョンソン首相、そして今回のトラス首相と、過去3代の英首相は何れも保守党の党首選を勝ち抜いた人物で、首相就任時に総選挙で選ばれた人物ではない。保守党は議会の過半数を握っており、保守党の党首選を制した候補が首相に就任する。有権者の僅か0.3%に過ぎない保守党員の投票で、次の首相を選ぶことに野党勢は反発している。総選挙の実施を求めているが、世論調査で劣勢が続く保守党がこれに応じる可能性は低い。英国では首相の解散権を封印した議会任期固定法が2020年に廃止され、現在は議会任期満了時(2024年12月17日が議会任期、そこから25日以内の木曜日に総選挙を行うため、次の総選挙は最も遅くて2025年1月12日)に加えて、首相が決断した場合や議会の過半数が支持した場合に任期満了以前に解散・総選挙が行われる。

保守党の後継党首選は、所属下院議員による投票で2候補まで絞り込まれた後、一般党員による決選投票で最終勝者を決定してきた。決選投票に進出した2候補は、英国各地で遊説し、支持を呼びかける投票キャンペーンを行う。トラス首相が選出された前回の党首選では、ジョンソン首相の辞意表明から後継党首の選出までに約2ヶ月を要している。国家の危機時にそうした手続きを繰り返せば、国民からの反発も避けられない。選出手続きを大幅に短縮するため、今回の党首選では、立候補に必要な推薦議員の数を前回の20名から100名に引き上げるとともに、議員投票で2名に絞り込んだ後、党員投票の前に議員による示唆的投票を行う。初回の議員投票は24日に行われ、推薦人を確保した立候補者が3名の場合、上位2名が示唆的投票に進む。推薦人を確保した立候補者が2名の場合、そのまま示唆的投票を行う。推薦人を確保した立候補者が1名の場合、示唆的投票や党員投票は行われずに、後継党首が決まる。示唆的投票の敗者が立候補を取り下げれば党員投票は行われずに勝者が決まる。立候補を取り下げなければ、郵送での党員投票を行い、28日までに結果が判明する。党員投票前の遊説は行われず、上位2名によるテレビ討論会が1回行われる。

後継候補として名前が挙がるのは、①前回の党首選で議員投票を制し、決選投票でトラス氏に敗れたリシ・スーナク元財務相、②前回党首選で善戦したペニー・モーダント下院院内総務兼上院議長、③相次ぐ閣僚辞任で退陣に追い込まれたボリス・ジョンソン前首相、④将来を嘱望される若手期待の星で、前回党首選で善戦したケミ・バネノッチ国際貿易相、⑤ロシアによるウクライナ侵攻への対応で指導力を発揮、前回党首選が始まる前の世論調査で最有力候補の1人だったベン・ウォレス国防相、⑥強硬離脱派で前回党首選にも出馬したブレーバーマン前内相など。

保守党所属の下院議員は現在357名、立候補には100名以上の推薦議員が必要なため、立候補可能な人物は最大で3名にとどまる。週末にかけて100名の推薦人の確保が難しそうな候補を支持する議員の囲い込みが行われるとみられる。幅広い推薦人を集めることができそうな候補としては、スーナク、モーダント、ジョンソン氏の3名が有力視される。スーナク氏は前回党首選の計5回の議員投票を何れも第1位で通過、当時からトラス氏による財源の裏付けがない大型減税案の危険性を指摘していた人物で、財政規律派の元財務相として金融市場の信頼回復が期待できる。ジョンソン前首相の辞任の引き金を引いた人物でもあり、ジョンソン氏に近い議員の反感を買っている。モーダント氏は前回党首選の議員投票では5回目の投票まで残り、トラス氏と決選投票進出を争った。トラス首相の辞任要求が高まった際には、「我々に必要なのは安定で、メロドラマではない」と発言し、トラス氏を擁護した。ジョンソン氏と強硬離脱派の支持を分け合うとともに、トラス首相に近い議員の支持を集める可能性がある。相次ぐスキャンダルで首相の座を追われたジョンソン氏だが、今でも党内で大きな影響力を持つ。離脱実現を訴えて戦った2019年12月の前回総選挙では、保守党に地滑り的な勝利をもたらした。低迷する保守党の支持率を回復し、次の総選挙で勝利できる人物として、まさかの返り咲きを果たす可能性もある。

ジェレミー・ハント財務相がトラス減税の大半を撤回した後も、政府債務の均衡には追加で300~400億ポンド程度の財政赤字削減が必要となる。政府は月末に前倒しされた中期財政計画の発表と合わせて、新たな増税や歳出削減策を発表すると見られてきた。今回のトラス首相の辞任で後継党首選がスタートするが、財務省は予定通り、10月31日に中期財政計画を発表する方針を示唆している。金融市場の動揺はひとまず沈静化したものの、大型減税の規模圧縮と追加の財政赤字削減策により、英国景気のマイナス成長転落は避けられない。家庭向けのエネルギー料金凍結を半年に短縮したことで、来年4月以降のエネルギー料金が再高騰し、物価が高止まりする可能性がある。政策転換で短期的にはBOEによる利上げ幅の大幅拡大の可能性は遠退いたが、当初の想定以上に利上げ局面が長期化する恐れが出てきた。次の保守党党首(英首相)は、保守党の信頼回復と党内融和を進めるとともに、緊縮財政と金融引き締め下で、物価高騰による生活困窮対策と景気扶養を目指すことになり、その前途は多難と言わざるを得ない。

以上

田中 理


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田中 理

たなか おさむ

経済調査部 首席エコノミスト(グローバルヘッド)
担当: 海外総括・欧州経済

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