パキスタン・カーン首相が議会解散を要請、新たな地政学リスクの火種に

~政情不安が地域情勢の悪化に繋がるリスクにも要注意~

西濵 徹

要旨
  • パキスタンでは2018年の総選挙を経てカーン政権が誕生し、IMFなどの支援受け入れを通じて財政悪化と景気低迷に対応して一旦は状況打開に向かった。しかし、一昨年来のコロナ禍に際して政策運営の手足が縛られるなか、足下ではインフレ昂進が続く一方で対外収支は悪化するなど経済のファンダメンタルズが急速に悪化している。国際金融市場を取り巻く環境は変化しつつある上、ウクライナ情勢の悪化による国際商品市況の上昇も重なり、先行きのパキスタン経済を巡る状況は一段と悪化する可能性が懸念される。
  • カーン政権は財政健全化への取り組みを進める一方、景気回復が遅れるなかで国民の不満が高まってきた。さらに、政権の後ろ盾となった国軍との関係悪化も懸念されるなか、野党は議会に内閣不信任案を提出し、与党連立内で造反の動きが出るなど可決される可能性も高まっていた。こうしたなか、カーン首相は先手を打つ形で議会解散を決定したが、野党は徹底抗戦の構えをみせるなど政局混乱は必至である。同国は核保有国で隣国インドと鍔迫り合いを繰り広げる一方、アフガン情勢も見通しが立たないなか、政局混乱は地域情勢に悪影響を与えることが懸念される。経済のファンダメンタルズ悪化で通貨ルピー安に歯止めが掛からないなか、今後は経済の危機的状況が地域情勢の悪化に発展するリスクにも注意が必要と言えよう。

パキスタンでは、2018年に実施された総選挙(国民議会(下院)選挙)において、クリケットの元スター選手であったイムラン・カーン氏が率いるパキスタン正義運動(PTI)が第1党となり、その後にカーン氏が首相に選出される形で現政権が誕生した。政権交代が実現した背景には、当時の与党であったパキスタン・イスラム教徒連盟シャリフ派(PML-N)を事実上率いるナワズ・シャリフ元首相が汚職罪で収監されるなど、既存政党に対して国民の間の失望が高まったことがある。さらに、当時のパキスタンは巨額のインフラ投資などに伴う歳出増や対外債務の膨張を理由に国際収支が急速に悪化するなど、経済危機に陥ることが懸念されており、事態打開を図ることが急務となっていた。カーン政権の発足後、同政権は友好国であるサウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)、中国からの経済支援に加え、2019年にIMF(国際通貨基金)から総額60億ドルの財政支援を受け入れることにより、財政悪化と景気低迷に対応する動きをみせた。こうした動きを受けて国際収支を巡る問題は一旦落ち着きを取り戻したものの、一昨年来のコロナ禍を経て景気に下押し圧力が掛かる一方、IMFからの支援受け入れを引き換えに緊縮的な財政運営を余儀なくされるなど、政策対応は手足を縛られる状況が続いた。さらに、昨年以降の主要国を中心とする世界経済の回復を追い風とする原油など国際商品市況の上昇の動きを受けて、対外収支は急速に悪化するとともに、インフレ率は再び加速感を強めており、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)は脆弱さが増す展開となっている。なかでも外貨準備高については、IMFからの支援を受け入れる直前の2019年半ばには月平均輸入額の1.4ヶ月分にまで低迷するなど『危機的状況』が意識されたものの、その後は支援受け入れや国際商品市況の低迷など外部環境も追い風に3ヶ月分を上回る水準となるなど状況は大きく改善した。しかし、昨年後半以降は再び減少に転じるとともに、国際商品市況の上昇なども影響して今年2月末時点では月平均輸入額の2.0ヶ月分となるなど再び厳しい状況に追い込まれつつある。コロナ禍を巡っては、年明け以降もオミクロン株による感染再拡大に見舞われるなど度々厳しい状況に直面する一方、ワクチン接種率は完全接種率(必要な接種回数をすべて受けて人の割合)が5割程度、追加接種率は3%程度に留まるなどワクチン接種は世界的には遅れる状況が続いているものの、行動制限には及び腰の対応が続いている。結果、人の移動は底入れを強めるなど景気回復に繋がる動きがみられる一方、原油をはじめとする輸入増を受けて対外収支は一段と悪化するとともに、インフレも昂進している。さらに、足下ではウクライナ情勢の一段の悪化を受けて原油や天然ガスなど鉱物資源のみならず、小麦やトウモロコシなど穀物などの国際価格も上振れしており、今後は経済のファンダメンタルズが一段と脆弱さを増す懸念が高まっている。国際金融市場においては、米FRB(連邦準備制度理事会)など主要国中銀が軒並みタカ派姿勢を強めるなど新興国を取り巻く状況が厳しさを増しており、経済のファンダメンタルズが脆弱な国々では資金流出圧力が強まることが懸念され、通貨安による輸入物価の上振れがインフレ昂進を招くことが警戒される。

図 1 インフレ率の推移
図 1 インフレ率の推移

図 2 経常収支の推移
図 2 経常収支の推移

なお、上述のようにコロナ禍を巡る状況は最悪期を過ぎていると捉えられる一方、現政権が受け入れを決定したIMFからの支援を理由に財政健全化を迫られており、景気に足かせをはめられる展開が続いている。なかでも現政権は財政健全化を目的に、所得税増税のほか、ガス及び電気料金の引き上げを実施するなどの取り組みを進めてきたものの、国際商品市況の上昇も追い風に足下のインフレ率は中銀の定めるインフレ目標を上回る推移が続いており、景気回復が遅れるなかで国民の間に不満が高まっている。こうした事態を受けて、議会内では野党勢力を中心に現政権の政策運営に対する批判が強まっており、先月末には議会に内閣不信任案が提出されるなど、その審議の行方に注目が集まった。上述のように2018年の総選挙でPTIは第1党となるも、単独では半数を上回る議席を獲得できず、少数政党などと与党連立を組むことにより多数派を形成していたものの、野党による攻勢を受ける形で与党連立内では造反の動きが広がっており、仮に不信任案の採決が行われれば可決される可能性も高まっていた。さらに、総選挙でのPTI躍進の背景には国軍による支援が取り沙汰されたものの、足下では関係悪化が指摘されており、野党などによる政権への反発の動きが活発化する一因になっているとみられる。こうしたなか、今月3日に議会下院で内閣不信任案の採決が予定されたものの、議会運営に当たるカシム・スリ副議長が審議そのものを国益に反することを理由に却下する判断を下した。さらに、カーン首相はアルビ大統領に対して議会下院の解散を進言したことを明らかにするとともに、アルビ大統領は議会下院の解散を宣言し、内閣不信任案の採決前に先手を打つ動きをみせた。なお、野党側はカーン首相による事実上の内閣不信任案の審議拒否に対して憲法違反を理由に徹底抗戦を図る動きをみせている。現行憲法においては、議会下院は解散から90日以内に選挙を実施することが既定されている一方、野党が今回の決定に対する司法判断を求めていることを受けて最高裁判所が解散の妥当性を判断するとみられ、最終的に決定が覆る可能性もあり、政情は急速に不安定化することが懸念される。同国は長きに亘って軍事政権が続いてきたほか、足下においても軍が政治に対して強い影響力を有するなか、上述のように政権と軍との関係悪化が取り沙汰されるなかで軍が如何なる動きをみせるかも今後の動向を左右すると見込まれる。ただし、仮に解散が却下された場合はいずれの党も単独で多数派を形成出来ていないなかで複数政党による連立を組む必要がある一方、解散が行われた場合においても多数派を形成することは難しいと見込まれるなど政局は極めて流動的とみられる。他方、同国は核保有国である上、隣国インドとの間でカシミール地方の領有権を巡って鍔迫り合いを続ける一方、パキスタンには中国、インドにはロシアが軍事的な後ろ盾となるなど、ウクライナ情勢が混とんとするなかで地域情勢にも少なからず影響を与える可能性がある。さらに、隣国のアフガニスタンでは昨年、米軍の撤退を機にタリバンが政権を掌握するなど地域情勢の不安定化に繋がる動きもみられるなか、仮にパキスタンが政情不安に陥れば地域情勢の見通しがこれまで以上に立ちにくくなることは必至である。上述のように、国際金融市場を取り巻く環境も変化するなかで足下の経済のファンダメンタルズは急速に悪化しており、通貨ルピー相場は最安値を更新する展開が続くなど実体経済を巡る状況も悪化することが懸念される。経済の危機的状況の再燃をきっかけに地域情勢が大きく混とんの度合いを増す可能性にも注意が必要と言える。

図 3 外貨準備高の推移
図 3 外貨準備高の推移

図 4 ルピー相場(対ドル)の推移
図 4 ルピー相場(対ドル)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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