分配戦略:もっと吟味すべき3つの論点

~どこに勤労者は不満を持つのか?~

熊野 英生

要旨

衆議院選挙の政策論争は、分配のあり方が焦点になるだろう。そのときに、もっと吟味すべき点として、①実質賃金が下がっていること、②非正規労働者には成長の恩恵が分配されにくいこと、③正社員への恩恵がベースアップに向きにくく、賞与中心になること、に気を留めた議論をしてほしい。

低下し続ける実質賃金

衆議院選挙が近づき、各政党の選挙公約が相次いで発表されている。しかし、それらは「勤労者の不満」に対して十分な受け皿になっているのだろうか。筆者は、多くの場合、核心部分からは少し外れている気がする。これは、岸田政権の基本政策においても同様である。本稿は、せっかくの国勢選挙なので、経済政策論争が核心部分を置き去りにして進むことがないように、正しく問題提起をしたい。

まず、実質賃金が1996年をピークにして、ほぼ一貫して下落している問題だ(図表1)。これは、厚生労働省「毎月勤労統計」の年次データではっきりと表れている。今回、各党が実質賃金を問題視する傾向は薄い。

図表1
図表1

新しく岸田首相が分配戦略を強調するのは、まさしく生活実感として賃金が十分に上がっていないからだ。この実感は、名目値以上に実質値で言えることだと思う。

事実関係を整理すると、2013~2018年まで名目賃金は上昇した(図表2)。しかし、そのペースは物価上昇率に割り負けてきたのが実情だ。消費者物価上昇率に対して、賃金の増加率分が上回っていない。だから、勤労者は生活が苦しくなったと不満を持つ。

図表2
図表2

アベノミクスがこの問題に全く無関心であった訳ではない。実質賃金の分母側の物価に注目すると、アベノミクスが物価2%を掲げ、物価は以前に比べて下落が起こりにくくなったことは明らかだ。安倍政権は、もう一方で、官民一体の賃上げを推進して、分子側の名目賃金を十分に上げようとした。しかし、残念ながら、成果は不十分だと言わざるを得ない。そのため、名目賃金が割り負けて、実質賃金は下がってしまう。

次に、エコノミストの立場から問題の本質を少し深掘りしてみたい。実質賃金の上昇率は、労働生産性の上昇率を反映する。アベノミクスは、その生産性上昇を十分に達成できなかった。理屈の上では、労働生産性が高まれば、効率化によって相対的に物価は下がる。もう片方で労働投入1単位当たりの生産数量が増えるから、結果的に実質賃金を増やすことができる。アベノミクスは一時的に「働き方改革」を標榜したが、労働生産性を十分に高めることはできなかった。特に、サービス産業の労働生産性は低調なままだった。

もう一つは、サービス物価が上がらない問題だ。読者は、先に「物価は上がっている」と筆者が述べたことと矛盾すると思うかもしれない。正確に言えば、消費者物価の中で上昇しているのは、財価格の方である(図表3)。輸入財が海外の物価上昇や円安効果によって上がり、国内財価格を押し上げているからだ。これに対して、サービス価格は、海外からの影響を受けにくく、アベノミクスの時期にも上昇は鈍かった。サービス価格は上昇しているが、需要が弱くて値上げが行いにくいと言えばわかりやすいだろう。2014年、2019年の消費税率の引き上げでも、サービス価格は粘着的で上昇率は財価格よりも鈍かった。事業者が値上げをしにくい反動が、サービス従事者の賃金を切り下げる圧力となっている。その結果、実質賃金は、輸入物価が財価格を押し上げる効果によって、下がりやすくなる。

図表3
図表3

実質賃金を上げるには、(1)労働生産性を高めることと、(2)サービス需要を高めること、それを同時に行わなくてはいけない。岸田首相は、法人税減税を梃子に使って賃金分配を進めると、「分配は次の成長」を促す効果があると言っているので、循環メカニズムが働き始めることへの期待感はある。その一方で、サービス需要の弱さの背後には、年金生活者の購買力の弱さがあるから、分配戦略だけではどうしようもない側面もある。そうした足枷を大きく上回るくらいに、アベノミクス下の官民一体の賃上げを大きく進めることができるのだろうか。その点は、正直に言って、不確実性が大きいと思える。

非正規問題

岸田首相は、労働分配率を引き上げて、分厚い中間層を再構築するという。中間層を形成するのは、正社員が対象になると推定される。では、非正規の方はどうなるのだろうか。岸田政権の下では、あまり正社員と非正規労働者の区分を意識して議論していない気がする。

筆者の理解は、以前から成長の果実が非正規労働者には届きにくいことが、デフレ傾向を生んだと考えてきた。今回も、成長の果実が自然の流れとして非正規労働者に回っていくような議論になっているが、そこは仕組みとして、非正規労働者にボーナスがないことが多い。賃金データを調べると、正社員は企業収益の改善を受けて、ボーナスが増える効果によって賃金が増える。実質GDPの伸び率と、各種賃金の伸び率との相関係数を調べると、非正規労働者の賃金は比較的相関係数が低くなっていた(図表4)。このことは、成長の恩恵が正社員には届きやすいが、非正規労働者には届きにくいことを示している。

図表4
図表4

岸田首相の方針では、看護士、介護職員、幼稚園教諭、保育士などの待遇は、公定価格のあり方を見直すことで、待遇改善を図るとしている。筆者は岸田首相の考え方に賛成するが、反面、民間サービス業で従事する多くの非正規労働者の問題にはあまり焦点を当てていないように感じる。

非正規労働者が成長の果実を得るには、彼らがボーナスを得るという考え方もあろうが、筆者は正社員への転換を積極的に促す方が本筋だと考えている。財政資金を使って、給付金や慰労金を渡すよりも、非正規労働者の人々が正社員の待遇を得ることの方がより継続的な効果があるはずだ。野党の公約には、そうした給付が特に目に付くが、もっと非正規労働者の正社員化を論じた方がよい。

ボーナスか、ベースアップか

正社員は、ボーナスを得られるから成長の果実を得られるという点は、もっと深掘りをして考えるべきだ。例年の春闘のときには、経営者側は「ベースアップよりも一時金で処遇する」という言葉を聞く。賃金データを調べると、ベースアップを反映した所定内給与の伸び率は、実質GDPとの相関係数が低かった(前掲・図表4)。その代わりに、賞与の伸び率は実質GDPとの相関が高い。このことは、実際に正社員の待遇改善がボーナスによって行われやすくなっていることを示している。

生活者の目線でみて、賞与よりも月例給与の水準が継続的に上がる方が、ずっと生活を豊かにできる。なぜ、経営者がボーナスによる賃金増加を望むかと言えば、企業が将来に不安を抱えているからだ。収益が増えるときだけ、賞与を中心にした賃金分配をしたいと考える。ベースアップだと、不況に転じたときに人件費を減らしにくい。その結果、正社員は、賞与が将来は減らされる可能性があると不安を抱きながら生活をしなくてはいけなくなる。

岸田政権が、法人税減税を通じて賃金を引き上げることは、筆者も賛成する。しかし、そこで企業が専ら賞与を通じた分配に走る可能性は残る。岸田政権は、そうした点も十分に考慮した上で、ベースアップを支援するのに有利な税制をプランニングすることが肝要である。

熊野 英生

熊野 英生

くまの ひでお

経済調査部 首席エコノミスト
担当: 金融政策、財政政策、金融市場、経済統計

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