座談会特集『人的資本経営と持続的な企業価値向上』

東北経済連合会 副会長 橋浦 隆一

座談会写真
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「人的資本経営と持続的な企業価値向上」は、近年でも注目度の高いテーマのひとつです。今回の経済研レポートでは、12月号の特別企画として、自らも仙台を拠点に企業を経営し東北経済連合会副会長も務める橋浦隆一氏を招き、第一生命経済研究所主任研究員の白石香織との座談会形式で、現状課題の整理と今後のアクションの方向性を探りました。

なぜいま人的資本経営が必要なのか?

人的資本経営とは何ですか?

白石 人的資本経営とは、「人材を資本として捉えて、その価値を最大限に引き出すことによって企業価値向上につなげようという経営の在り方」です。今求められている背景には、企業が生み出す価値の源泉が変わってきたことがあります。これまでは、有形資産(例えば工場や設備)が主に利益を生み出していましたが、無形資産(人のアイデアや技術革新)が利益を生み出す割合が大きくなってきました。そのため、無形資産のなかでも特に人材にどれだけ投資しているかが企業の成長に直結することから、人的資本経営の重要性が高まることになりました。

人的資本経営の開示についても、どうして注目されているのでしょうか。

白石 投資家にとっては、企業がどのような人材投資を行っているかが企業を評価するうえでの重要な判断材料となるため、その情報を積極的に開示していきましょう、という動きにつながっています。

非上場企業は開示義務がないので対応する必要がないのでしょうか?

白石 たしかに非上場の企業や中小企業について開示義務はありませんが、「利益の源泉が変わってきた」ことがもともとの背景にありますので、上場・非上場に限らず取り組むべきことかと思います。実際に、30人ぐらいのベンチャー企業でも、経営戦略として自主的に人的資本への投資状況を開示しているところも出てきています。

人的資本経営に関する開示対応を進めることで、企業側にどんなメリットが期待できますか?

白石 成長性への評価が上がることもありますが、優秀な人材の獲得につながるということが考えられます。逆にいえば、現状では、企業価値を向上させるような人材投資や人材確保ができていない「人手不足」の課題があると思います。

日本の全企業の99.7%は中小企業と言われていますが、中小企業でも人的資本経営に対する意識は高まっているのでしょうか?

橋浦 人的資本経営のうち、大企業が進めているような「従業員への投資状況の見える化」については、まだまだ普及していないのが事実です。ただ、人材への投資や優秀な人材の確保という課題、いわゆる「人手不足」の状態は、中小企業の方が深刻なのではないかと思います。

大企業と中小企業の「人手不足」の違いは?

白石 大企業の場合は、人員が足りないというよりは、成長分野にうまく人員を配置できていないという問題を抱えています。課題として、企業内でリスキリングを進めて、成長分野と人をマッチングさせていくこと等が考えられます。

橋浦 中小企業の場合は、そもそも人員に余裕がない場合が多いと思います。大企業の場合は、リスキリングや配置換えを行って、ある程度流動的に求められる人材に育て上げていくことが可能ですが、中小企業の場合はスキルが属人化されやすく、異動配置に替えが利かない場合が多いため、それが容易ではありません。誰一人として取り残せない状況で、現有の人員で最大限のパフォーマンスを上げていかなければいけないので、人材の教育も難しい面があります。

白石 別の観点からでは、大企業は人的資本の開示義務の導入に伴い、開示資料や開示方法への取り組みが中心となってしまっている可能性があります。中小企業の方が、自分たちの置かれている人手不足の課題を捉えて、本質的に取り組みを実践できているかもしれません。

橋浦 中小企業としては、今いる従業員が最大限のパフォーマンスを発揮できているのかどうかの検証もなかなか難しい、という問題もあります。今後、大企業の人的資本経営の考え方が進む中で、何を指標としていくべきかが明確になってくるのは、参考になるポイントだと思います。

人的資本経営の「果実」と「土壌」

「人手不足」には、①今いる人材への投資ができていない問題、②人材を確保できていない問題の2つがあるように思います。①の問題についてはどう捉えていますか?

橋浦 従業員への投資という点では、スキルや資格の取得はもちろん大事ですが、それ以上に、組織のパフォーマンスを最大化するためには経営理念の浸透や同じ目的に向かって進む一体感が大事だと思っています。例えるなら、スキルや資格が「果実」だとすると、それを支え、育てて活用していく「土壌」に該当する部分です。土壌があって、初めてスキルや資格取得の果実に繋がっていきます。好業績の中小企業は土壌作りがしっかりしているケースが多いのではないかと思います。人的資本経営というと、果実の部分が強調されがちですが、土壌作りの方がより重要なポイントだと思っています。

白石 果実と土壌という考え方はすごくわかりやすいですね。人的資本経営では、「従業員エンゲージメント」を高めるという話がよく出ますが、これは橋浦さんが言っている土壌作りに他ならないと思います。従業員満足度が「会社への満足度」を示すのに対して、従業員エンゲージメントは、従業員がどれだけ会社に愛着をもって貢献していきたいと思っているか、従業員と会社がどれだけ同じ方向を向いているかを示すものです。従業員エンゲージメントの高い企業は、自律的に企業に貢献するために成長しようという意欲をもっている従業員が多くいる企業ですので、土壌作りがしっかりできているということかと思います。

土壌作りで難しいと感じる点はありますか?

橋浦 中小企業の場合は、自分たちを客観的に評価しづらい点ですね。組織の全員が同じ方向に向くためには、自分たちの今の立ち位置を知る必要がありますが、社内には比較対象が少なく、1人1人のパフォーマンスの良し悪しを客観的に判断しにくい面があります。ですので、少なくとも部門のリーダーには、他社や業界で標準のスキルレベルを把握する等、広い視野を持ってもらう必要があります。トップが方向性を示して、部門のリーダーが視野を広く持って、1人1人と対話を重ねていくことで、きめ細かい指導ができ、土壌作りにつながっていきます。また、組織が小さければ小さいほど、1人の頑張りが会社全体に与える影響が大きくなりますから、ちゃんと会社への貢献が実感できるように仕向けていくことも重要ですね。

②人材を確保できていない問題についてはどうでしょうか?

白石 これは生産年齢人口が減少していくなかで、大企業・中小企業に関係なく直面する問題ですね。人手不足を前提に経営を進めていくことが重要となるため、デジタルを活用した効率化と多様な人材を受け入れる体制作りが大事かと思います。それには、雇用形態や労働者(女性、高齢者、外国人等)、働き方(出社やフルリモート勤務等)などの多様性を実現していく必要があります。

働き方に対する価値観も多様化しているようです。新入社員が企業に期待していることに関するアンケートでは、休暇休日の取得、やりがい、風通しの良さ、自己成長の実感等、様々なものが回答として並んでいます。

橋浦 働き方や価値観の多様性は尊重しなければいけないと思います。ただ、会社を変化させていくのは、経営者だけでなく、従業員であることを理解しておくことも重要です。会社の雰囲気を決めるのは従業員1人1人ですから、まずはそれを自覚する必要があります。そして、経営サイドと従業員とのフラットなコミュニケーションの中で、実際に働きやすい職場づくりが実現できると思っています。働きやすい環境は会社が一方的に与えるものでは決してなく、経営者・従業員が相互に対話する中で働き方や価値観の多様性を育んでいくことが、あるべき姿だと思います。

中小企業の「人的資本経営」のヒント

「人手不足」解決に向けて、中小企業は具体的にどんな取り組みを進めていけばいいでしょうか?

橋浦 大きな切り札は、やはり「労働力人口の定義を変えてしまう」という発想だと思います。1つは高齢者の雇用。多くの大企業で採用されているのは、継続雇用で65歳まで働けるけど、60歳を過ぎると給与が大きく下がるというシステムです。60歳以上の方が退職される理由の1つは給与の低下だと思いますので、中小企業は大企業ほど極端に給与を下げずに継続雇用できれば大きなメリットになると思います。2つ目は、育児や介護を抱えた従業員の働き方。時短勤務など、柔軟な人事制度を作ることで、育児や介護を抱えた従業員が働きやすくしてあげる必要があります。特に、育児や介護を理由に仕事を辞める人のなかには、会社に迷惑がかかることを懸念して退職という選択を取る人も多いため、働きたい思いがある人なら働ける環境や制度を整えることが急務です。こうした給与面や制度面を、社長が決められる意思決定の速さは、中小企業の強みですよね。

白石 「労働力人口の定義を変えてしまう」という発想はすごく腑に落ちます。そのためには多様な人材を受け入れる体制が必要ですし、実際に、柔軟な人事制度は助かります。私も現在子育て中ですが、以前であれば時短勤務をせざるを得なかったところを、テレワークのおかげでフルタイムで働くことができています。

橋浦 人事評価のシステムにも、中小企業のメリットを活かすことができます。先ほど言ったように、中小企業は少ない人数で構成されているので、社長や各部門のリーダーを中心に対話を重ねることで、1人1人にきめ細かい指導や目標管理ができます。私の会社では、各従業員の目標設定は、数値目標だけではなく、定性的な内容のものも含めて「ここまで出来たら評価する」という判断基準を、事前の対話でしっかり取り決めています。その上で、評価する際は「すごくできた、できた、できなかった、全然できなかった」の4段階評価として、対話のなかで評価を引き出していくようにしています。そうすることで、相対評価ではなく絶対評価ができますので、自分のパフォーマンスに対する評価の納得感が醸成されていくと思います。大企業だと部署も人数も多いため、どうしても相対評価が求められがちとなってしまい、全員が納得感を得られるような内容にするのは難しいのではないかと思います。

専門人材の活用も取り入れていると聞きました。

橋浦 実は、私の会社はすごく活用しています。東京都以外の道府県には、プロフェッショナル人材戦略拠点というものがあり、相談すると他の企業に籍を置きながら自分の会社を手助けしてくれる副業・兼業人材を紹介してくれます。例えば、私の会社では、データベースマーケティングの専門家やEC支援に特化した専門家とスポットの契約を結んで、マーケティングやECサイトのリニューアルをしてもらっています。ほかには、フリーランスの人材コンサルタントと顧問契約を結んでおり、人材の育成や採用に関することは常に助言を受けるようにしています。自社で部署を立ち上げて、高度なスキルの専門家を社内で抱えることを考えれば、トータルコストでは格段に安く、彼らの知見を活用することができるので助かります。一般的に、中小企業の社長が思っている以上の人材が、実は副業・兼業人材として存在しているので、有用な人材を見つけやすいのです。

専門人材を活用する際に気を付けていることは何ですか?

橋浦 専門人材を雇い入れるときのポイントは、お互いにとってのゴールをはっきり確認しておくことです。「専門家だから上手くやってくれるだろう」という考えでは、雇われた専門家も何をやっていいかわからず、成果に繋がりません。また、急に専門人材がやってくれば、従業員も最初は戸惑うこともあります。ただ、コミュニケーションを繰り返していくうちに、従業員の目線もだんだん専門家に近づいていって、レベルが上がっていきます。

白石 外部の人材を受け入れることによって、自社の人材のスキルを底上げするということですね。

橋浦 リスキリングの典型的な考え方として、自社の従業員が他所に学びに行くというすがたを思い浮かべることが多いと思いますが、そうではなくて、外部の人が自社に来ることによって従業員が学ぶというやり方もあるのではないかと思います。

中小企業という観点ではなく、地方企業という観点からは、どのような取り組みができるでしょうか?

橋浦 地域のコミュニティを活かした取り組みだと思います。例として、いま私の地域では、商店街の人流の実証実験に取り組んでいます。多くの商店街がそうかもしれませんが、仙台の商店街も、特にコロナショック以降は客足が減っており、何とかしなければいけないという問題意識が各経営者にありました。そこで、各方面に声をかけて、商店街にAIカメラやセンサーを10か所に設置し、人流データを蓄積することにしました。人流データとは、例えば通った人数や、通行人の性別、大体の年齢などです。この人流データとお店のPOSデータを突き合わせることで、中長期的には入店率がわかりますし、ポスターの掲示やクーポンの配布等の施策を打ったときの入店率への効果がわかるようになるので、効果的な施策を打っていけるようになります。この実証実験は、AIカメラの専門業者や商店街の街づくりの企業、地元の百貨店や飲食チェーン店等と一緒に取り組んでいます。全く違う業種でも、「商店街を盛り上げるためにやろう」と声をかければすぐに集まって形になるのは、地域コミュニティの強みだと思います。加えて、自治体や大学にも参画してもらって、オープンイノベーションという形で取り組めているのは、地方都市の良さだと思います。ちなみに「仙台まちテック」というワードで検索していただくと特設ホームページも用意してありますので、ご覧いただければと思います。

白石 私も以前、広島県と鳥取県のリスキリングの取組みを取材したことがあります。そこでは、県が企業にリスキリングの機会を提供し、企業同士で先進事例を学びあい、仕事の機会を紹介するなど、地域全体でリスキリングを進めていこうとする一体感を感じました。このような、地域の横のつながりを活用した人材戦略推進を中心とした人的資本経営が今後のカギになってくるのかもしれません。

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本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘等を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針等と常に整合的であるとは限りません。