時評『匂いから景気を読む』

山澤 成康

「景気」という言葉には「気」という文字が含まれている。景気は国内総生産(GDP)や生産指数、雇用統計といった数値で把握される一方で、人々が日常生活の中で感じ取る空気感にも強く依存している。街を歩いたときの活気、店員の声の張り、広告のキャッチコピー、飲食店の混み具合――こうしたものは、統計に表れる前に、人の感覚に訴えかけてくる。

政府やエコノミストが、景気判断においてアンケート調査を重視するのも、このためである。景気ウォッチャー調査は、景気の変化を肌で感じやすい人々の声を集める仕組みだ。彼らは統計を見て判断しているのではなく、日々の現場で漂う「空気」や「匂い」を言葉にしている。2025年に発表された景気ウォッチャー調査研究会の中間提言では、ライブハウスやイベント会場の運営者や民間職業紹介事業者などを「景気ウォッチャー」に加えることや、人工知能(AI)を活用したテキスト分析やパネルデータ分析の推進を提案している。

景気の「気」を直接分析しようという試みもいくつかある。文章を機械学習などで分析するテキスト分析は歴史が古い。筆者は、景気ウォッチャー調査のコメントを利用して、景況感を取り出す研究を行った。景気ウォッチャー調査や新聞記事に関しては「肯定的」か「否定的」か、を捉えるセンチメント分析(感情分析)による研究がいくつかあり、景気の現状を把握するのに役立っている。

視覚や音声にまで分析対象は広がっている。日銀総裁の表情から政策変更を読み取る研究がある。画像から、喜び、中立、怒り、驚き、嫌悪、軽蔑、悲しみ、恐怖の8つに分類される感情を読み取り、怒りや嫌悪が大きな政策変更の直前に高まるという結論である。米国では、米連邦準備理事会(FRB)議長の議会証言について、文章、声の高さ、表情の3つについて分析した研究がある。話題が金融政策で、文章、声の高さ、表情が肯定的な時、株価は上昇するという。

「景気と音楽」の関係についても深層学習の進展により研究が増えている。歌詞の研究としては、日本でも研究がある。1980~2018年の39年分の年間ヒット曲トップ10の歌詞を分析したもので、明るい曲が流行すると景気が良くなるという結論である。米国では、1958~2019年の米ビルボードHot100上位曲の歌詞を機械学習で分類し、失業率が高い時期にはポジティブな歌詞の曲がより好まれることを明らかにした研究がある。

さらに、音楽そのものと景気に関する研究も登場した。音楽配信サービスが大量のデータを持っていることを利用し、曲のテンポ、踊りやすさ、アコースティック度、明るさなどのデータと、失業率とインフレ率との相関をみた研究である。経済不安が高まる時期には「曲の長さが長めで静かでゆっくりだが、ダンス性が高く、明るめの曲」が好まれる傾向を指摘した。

一方で、匂いや味の研究は発展途上である。光や音はデジタル化しやすい。音は高さ、強さ、音色が0と1の情報で表され、完全にデジタル化されている。デジタル化が進み過ぎた結果、レコードが逆に流行っているほどである。光も、赤、緑、青の強さの組み合わせで表現できる。動画はその画像を何枚も取り換えることで表される。

これに対して、匂いは分子の組み合わせが膨大なうえ、同じ匂いでも温度や湿度などよって感じ方が変わるため分類が難しい。しかし、徐々に研究は進んでいくだろう。

匂いは魅力的である。マルセル・プルーストの『失われた時をもとめて』では、紅茶に浸したマドレーヌの匂いが、一瞬にして幼年期の記憶を呼び覚ます場面が描かれている。プルースト効果とよばれるものである。

商店街の惣菜の匂いや、駅構内のコーヒーの香り、人の行き交う空間に漂う匂いは、その地域の消費の勢いや人の動きを映し出している。こうした「匂いの景気指標」が、将来は新たな経済データになるかもしれない。

山澤 成康


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。