時評『退職所得課税の見直し議論の動向と今後の展望』

谷内 陽一

退職所得課税の見直しに関する議論が近年注目を集めている。昨年も税制調査会(政府税調)で議論されたものの、令和5年度与党税制改正大綱(2022年12月16日公表)では改正は見送られた。しかし本年に入り、「経済財政運営と改革の基本方針2023(骨太方針2023)」および「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版」(いずれも2023年6月16日閣議決定)において退職所得課税の見直しが盛り込まれたほか、6月30日公表の政府税調の答申「わが国税制の現状と課題:令和時代の構造変化と税制のあり方」でも言及されている。 そもそも退職所得とは、退職により一時に受ける給与(退職手当等)に係る所得をいう。退職所得課税の特徴をまとめると、①勤務年数(勤続20年までは1年につき40万円、20年超の部分は同70万円)に比例して計算される「退職所得控除」、②収入から必要経費(退職所得控除)を控除した残額のさらに半分を所得金額とする「2分の1平準化措置」、③他の所得とは合算せずに税率を適用する「分離課税」の3つに集約される。

退職所得は、過去の長期にわたる勤務の対価の後払いという性格を有しつつも、退職後の生活の原資に充てられる「老後の糧」であるとされ、他の所得に比べて税負担を低くするよう配慮されてきた。しかし2000年代に入ってから、長期勤続を一律に優遇することの妥当性や、企業年金における年金・一時金の選択に影響を与えていること等が指摘され、「多様な就労選択に対する中立性」あるいは「給与・退職一時金・年金の間での課税の中立性」の観点から退職所得課税の見直しが主張されるようになった。

そして、今般の見直しに係る議論では、「成長分野への労働移動の円滑化」が主眼に置かれている。前出の「骨太方針2023」では、リ・スキリングに取り組んだ場合の失業給付の自己都合離職要件の緩和や、モデル就業規則の改正(自己都合と会社都合との退職金額の差異の解消)を通した労働慣行の見直しとともに、退職所得課税の見直しを掲げている。同じく前出の「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画2023改訂版」では、「勤続20年を境に、勤続1年当たりの控除額が40万円から70万円に増額されるところ、これが労働移動の円滑化を阻害しているとの指摘がある」と更に踏み込んで言及している。今般の見直し議論も、この退職所得控除の計算方法のあり方が最大の争点となっている。

退職所得課税の見直しの必要性はかねてより繰り返し指摘されてきたものの、未だ実現には至っていない。労使双方にとって既得権益と化しているほか、有権者の負担増を伴う見直しには政治も及び腰だ。しかし、近年は潮目が変わりつつある。2分の1平準化措置については、2013年に特定役員退職手当等が、2022年に短期退職手当等がそれぞれ導入されるなど適正化が図られつつある。また、政府税調で2020年に報告された日本版個人退職年金勘定(日本版IRA、JIRA)構想では、現役期の掛金拠出だけでなく退職金の移管(現行の退職所得控除額と同水準を上限)も視野に入れており、同勘定を介さずに受給する退職金については受給時課税(の強化)を提唱している。同構想は、ともすると全国民共通の非課税拠出枠の設定ばかりが注目されるが、真の目的は退職所得課税の強化ではないかと筆者は睨んでいる。

最後に、退職所得課税の見直しが企業年金に及ぼす影響について考察する。企業年金から支給される一時金は「みなし退職手当等」として退職所得課税が適用されることもあり、受給者の大半が一時金受給を選択している。退職所得課税が強化されると、年金受給の割合が相対的に増加することが予想される。また、労働移動の円滑化の進展により、退職の度に何度も退職金を受け取ることが常態化することも予想される。こうした細切れの退職金を一元的に管理・運用するための手段として、企業年金等における現行のポータビリティの枠組みを、退職金、NISA、個人年金保険などあらゆる私的年金および各種資産形成手段に拡充することも併せて検討すべきである。

谷内 陽一


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