マレーシア中銀、行動制限緩和による景気底打ちの動きを好感

~現行の緩和姿勢維持の一方、金融市場の動揺への耐性は不充分ななか、民間部門の動向がカギに~

西濵 徹

要旨
  • マレーシアでは、新型コロナウイルスの感染再拡大を受けて非常事態宣言や都市封鎖を発動するも、政局のゴタゴタが表面化するなど難しい状況が続いた。ただし、イスマイルサブリ政権の下で政局争いが「一時休戦」するとともに、ワクチン接種の進展も追い風に足下の感染動向は大きく改善している。先月にはすべての都市封鎖が解除されて行動制限が緩和されており、人の移動の底入れに加え、企業マインドも改善するなど景気回復を示唆する動きもみられる。マレーシア経済を取り巻く状況は大きく改善していると捉えられる。
  • マレーシアは新興国のなかでも公的債務残高の水準が大きい一方、対外収支を巡る状況は好悪双方の材料が混在している。また、通貨リンギ相場の調整は緩やかなものに留まるなか、年明け以降のインフレ率は一時上振れするも足下では落ち着いた推移が続く。こうしたなか、中銀は3日の定例会合で政策金利を8会合連続で1.75%に据え置くなど現行の緩和姿勢の維持を決定した。足下の景気は行動制限の緩和により底入れが進むなか、現行の緩和姿勢の継続による景気下支えを重視した。ただ、外貨準備高は国際金融市場の動揺への耐性は充分ではなく、今後は民間セクターが主導する景気回復を促せるかが重要と言えよう。

年明け以降のマレーシアを巡っては、感染力の強い変異株の流入による新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染再拡大の動きが強まり、1月に全土を対象とする非常事態宣言が発令されるなど感染対策が急務となる事態に直面した(注1)。さらに、非常事態宣言の発令後も感染動向が一段と悪化したことから、6月には全土を対象とする都市封鎖(ロックダウン)の発動に動いたものの、行動制限の長期化を受けた『規制疲れ』も影響して規制の実効性は低下するなど感染爆発状態に陥った。このように新型コロナ禍対策が急務となったにも拘らず、政界においては野党のみならず、ムヒディン前政権を支える与党連合内でも政局争いが激化するなど国民を『置き去り』にした動きがみられ、8月にムヒディン前首相は退任を発表する事態となった(注2)。その後は政党間の合従連衡を経てイスマイルサブリ政権が誕生するも(注3)、政権を支える与党連合は連邦議会下院でギリギリ半数を上回る勢力に過ぎないなど政権基盤は脆弱であるため、政局争いが再燃する懸念がくすぶっていたものの、国王が調停する形で与野党は『一時休戦』に合意するなど政府が新型コロナ禍対応に注力することが出来る環境がようやく整った(注4)。なお、ムヒディン前政権はワクチン接種の積極化に取り組んできたほか、イスマイルサブリ政権においても同様の対応が採られていることを受けて、今月2日時点における完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は75.90%とASEAN(東南アジア諸国連合)内ではシンガポールに次ぐ水準となっている上、部分接種率(少なくとも1回は接種を受けた人の割合)も78.80%に達するなど、世界的にみてもワクチン接種は進んでいる。こうした動きも追い風に、同国では8月末に人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)は671人と感染爆発状態に陥っていたものの、その後は頭打ちに転じており、今月2日時点では172人と依然として高水準ではあるものの、ピークの4分の1近くにまで低下するなど感染動向は大きく改善している。また、新規陽性者数の低下により医療インフラに対する圧力が後退していることを受けて、足下においては死亡者数の拡大ペースも鈍化する動きもみられる。このように感染動向が改善していることを受けて、政府は9月に首都クアラルンプール周辺を都市封鎖の対象から外したほか、先月にはすべての都市封鎖が解除されるなど『ポスト・コロナ』に向けて大きく舵が切られている(注5)。さらに、イスマイルサブリ政権は発足直後に発表した「国家復興計画」に基づいて感染状況に応じて行動制限を段階的に解除するとともに、経済活動の再開を図る方針を示しており、先月の都市封鎖解除に併せてワクチン接種を前提に移動規制が緩和されるとともに、外国人観光客の受け入れも再開されている。マレーシアはASEAN内においても経済に占める外国人観光客を中心とする観光関連産業の比率が相対的に高く、昨年来の新型コロナ禍を受けた国境封鎖によって関連産業を中心に景気に甚大な悪影響が出る事態を招いた(注6)。しかし、足下においては都市封鎖の解除も相俟って人の移動は底入れの動きを強めているほか、こうした動きに歩を併せる形で企業活動も活発化するとともにマインドも大きく改善しており、景気回復を示唆する動きが確認されている。マレーシア経済を取り巻く状況は着実に改善していると捉えることが出来る。

図表
図表

図表
図表

なお、マレーシアを巡っては元々経済における公的部門の関与がアジア新興国のなかでも比較的高く、それに伴い公的債務残高のGDP比も相対的に高い水準で推移するなど、財政運営に対する懸念がくすぶる状況が続いてきた。こうしたなか、昨年来の新型コロナ禍対応を理由に政府及び中銀は財政及び金融政策の総動員を通じて景気下支えを図る動きをみせており、そうした動きを反映する形で公的債務残高のGDP比は大きく押し上げられるなど、財政を巡る脆弱性は急速に高まっている。さらに、昨年来の新型コロナ禍を受けた国境封鎖に伴う外国人観光客の激減によりサービス収支は赤字幅が大きく拡大するなど対外収支の悪化が懸念されたものの、昨年後半以降における欧米を中心とする世界経済の回復を追い風にした国際商品市況の上昇により財収支の黒字幅は拡大しており、対外収支を巡る動きはまちまちと捉えられる。一方、年明け以降のインフレ率は昨年前半に外出制限措置の発動を受けて大きく下振れした反動で上振れする動きがみられたものの、その後は国際原油価格の上昇が続いているにも拘らず比較的落ち着いた動きが続いており、インフレが警戒される状況とはなっていない。また、年明け以降の国際金融市場においては米FRB(連邦準備制度理事会)による量的緩和政策の縮小が意識されるなど新興国へのマネーフローに影響を与え得る展開が続いているものの、リンギ相場の調整は緩やかなものに留まるなど物価への影響も限定的なものとなっている。こうしたなか、中銀は3日に開催した定例会合において政策金利を8会合連続で過去最低水準である1.75%に据え置くなど、現行の緩和政策を維持する決定を行った。会合後に公表された声明文では、世界経済について「回復基調を維持している」とした上で「物価上昇の懸念はあるが、ワクチン接種による感染封じ込めに加え、財政及び金融政策による下支えが期待される」としつつ、「不確実性の高まりやサプライチェーンを巡る問題、金融市場のボラティリティの高まりなどを理由にリスクは下向きに傾いている」との見方を示した。一方、同国経済も「行動制限に伴い7-9月の景気は下振れしたが、制限緩和を受けて回復が進んでいる」とし、「来年に向けては世界経済の回復や経済活動の再開に伴う民間セクターの支出拡大、政策支援に支えられる形で景気のモメンタムは回復する」としつつ、「世界経済の下振れ懸念やサプライチェーンを巡る問題、感染動向を理由にリスクは下向きに傾いている」との認識を示した。また、物価動向については「経済活動の正常化を受けて上昇が見込まれるものの、生産余力や労働市場の緩みを勘案すれば緩やかな上昇に留まる」とする一方、「国際商品市況の上昇やサプライチェーンの混乱が長期化することに伴うリスクが懸念される」との見方を示した。その上先行きの政策運営について「企業及び家計部門への経済的影響の緩和、経済活動の支援に向けて財政及び金融政策の両面で支援を続ける」とした上で、「持続可能な景気回復を支えるべく必要な政策手段を活用する」としつつ「物価や景気動向を注視する」とする考えを示した。上述のように足下のインフレ率が比較的落ち着いた推移をみせている上、通貨リンギ相場は行動制限の緩和による景気回復期待を追い風に堅調な動きをみせていることを勘案すれば、先行きも中銀は現行の緩和スタンスにより景気下支えを図る姿勢を維持する可能性は高いと見込まれる。他方、国際商品市況の上昇にも拘らず足下の外貨準備高は減少しており、IMF(国際通貨基金)が示す国際金融市場の動揺に対する耐性に関する基準(ARA:Assessing Reserve Adequacy)に照らすと適正水準をわずかに下回るなど、国際金融市場の動揺に対する耐性は必ずしも充分とは言えない状況にある。上述のように公的債務を巡る状況も課題を抱えることを勘案すれば、足下のマレーシア経済は改善が期待されるものの、公的部門への過度な依存を脱却するとともに民間セクターがけん引役になる形で景気回復が進むか否かがこれまで以上に重要になっている。

図表
図表

図表
図表

図表
図表

以 上

西濵 徹


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

執筆者の最新レポート

関連レポート

関連テーマ