マレーシア、「妥協の産物」としてのイスマイルサブリ新政権の発足

~政権基盤は脆弱な上、与党連合のみならず党内にも火種を抱えるなど、厳しい船出を迎える展開~

西濵 徹

要旨
  • マレーシアでは新型コロナウイルスの感染悪化が続く一方、政局争いが激化した結果、ムヒディン前首相は今月16日に辞任した。その後の政党間協議の結果、代議院で最大の議席を有するUMNO所属で前政権において副首相を務めたイスマイルサブリ氏が多数派を形成して首相に就任した。ただし、政局争いを経て誕生した新政権を支える与党連合は前政権と同じ枠組でギリギリ半数を上回る水準に留まる。さらに、最大与党UMNO内も政局争いのなかで事実上分裂したことを勘案すれば、与党連合のみならず党内にも火種を抱えた船出となる。よって、政権運営を巡っては極めて難しい舵取りを迫られることは避けられそうにない。
  • 足下のマレーシア国内では感染拡大が続いている上、死亡者数も拡大ペースを強めるなど感染動向は急速に悪化している。前政権はワクチン接種を経済活動の正常化に向けた「切り札」に据えるなどASEAN内ではワクチン接種が進んでいるが、中国製ワクチンを巡る問題も影響して効果は上がっていない。新政権による政権運営は前政権から踏襲される見通しだが、政権基盤が脆弱で求心力が乏しいなかでは有効な策が打ち出されず、結果的に事態打開に向けた取り組みが進まない難しい展開が続く可能性も懸念されよう。

このところのマレーシアは、変異株の流入により新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染拡大の中心地となっており、足下では人口当たりの新規陽性者数はASEAN(東南アジア諸国連合)内で突出した水準となっている上、新規陽性者数の急拡大による医療インフラのひっ迫に伴い死亡者数の拡大ペースも加速するなど感染動向は急速に悪化している。こうした状況を受けて、政府は感染対策を理由に非常事態宣言の発令やそれに伴う行動制限の強化を図ったことで景気に急ブレーキが掛かる事態となる一方、(注1)、政府の感染対策の不手際などを理由に政局争いが激化するなど国民を置き去りにした動きがみられた(注2)。さらに、今月初めには与党連合の一角を担ってきた統一マレー国民組織(UMNO)所属の閣僚が辞任するなど政権内の『遠心力』が強まり、政権与党が連邦議会下院(代議院)の少数派となることが明らかになったため、ムヒディン前首相は今月16日にアブドラ国王に対して辞意を申し入れた(注3)。なお、同国憲法においては国王が代議院において半数を上回る議員から支持を得ている議員を首相に任命するとしており、国王が有力議員の党首から意見聴取を行うことで次期首相候補の選定が行われる一方、いずれの政党も多数派を形成出来ず事態が長期化することも懸念された。その後の各政党による協議の結果、代議院において単独政党として最大の議席を有するUMNO所属でムヒディン前政権の副首相であったイスマイルサブリ氏が多数派を形成して新たな首相となることが決定した。イスマイルサブリ氏は弁護士出身であり、アブドラ元政権で青年・スポーツ相、ナジブ元政権で国内取引・協同組合・消費者相、農業相、地方・地域開発相を務めた後、ムヒディン政権では上級相兼防衛相、そして7月からは副首相兼防衛相を務めるとともに政権の新型コロナウイルス対策の中心的な役割を担ってきた。こうしたことに加え、イスマイルサブリ新政権を支える与党連合の枠組は最終的にムヒディン前政権を支えた枠組と全く同じ構図となるなど、コップのなかの政局争いは最終的に『元の鞘』に収まる形で終結した格好である。ただし、新政権を支える与党連合の議員数は114議席と半数(111議席)をわずか3議席上回るなどギリギリである上、最終的に与党連合に参加したムヒディン前首相率いるマレーシア統一プリブミ党(PPBM)は、政権参加に当たってUMNO内で隠然たる影響力を有するナジブ元首相やザヒド総裁などの入閣を拒否する『条件付き』の姿勢をみせるなどの問題を抱える(両者が汚職問題などを抱えていることが理由)。他方、ムヒディン前政権の瓦解を巡ってはUMNO所属の閣僚辞任がきっかけになる一方、UMNO所属のイスマイルサブリ氏は副首相に留任するなどUMNOは事実上分裂したほか、その背後ではUMNO内でナジブ元首相やザヒド総裁など『党内主流派』とイスマイルサブリ氏などとの対立が表面化する動きもみられた。ただし、UMNOの分裂は年内に迫る次期総選挙での『共倒れ』懸念からムヒディン前首相の辞任を受けて再統合するとともに、首班候補の選定に当たっても『党内主流派』から支持されたマハティール元政権下の財務相であったベテラン議員のラザレイ・ハムザ氏を取り下げ、イスマイルサブリ氏に一本化することでPPBMなどの支持を取り付けた。こうした経緯を勘案すれば、イスマイルサブリ新政権もムヒディン前政権と同様に政権基盤は極めて脆弱な上、与党連合の枠組のみならず党内にも『火種』を抱えるなかで船出を迎えるなど、政権運営を巡っては極めて難しい舵取りが迫られることは避けられそうにない。

図表
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他方、政局争いのゴタゴタは続く背後で同国内の感染動向は一段と悪化しており、累計の陽性者数は153万人強、死亡者数も1.4万人弱とともにASEAN内でインドネシア、フィリピンに次ぐ水準となっている。ただし、同国の人口は3,270万人とインドネシア(約2.7億人)やフィリピン(約1.01億人)に比べて小さく、人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)も今月21日時点で663人と上昇の動きをみせている上、タイ(313人)の倍以上とASEAN内で突出した水準にあるなど極めて厳しい状況が続いている。さらに、新規陽性者数の急拡大を受けた医療インフラのひっ迫に伴い足下の死亡者数の拡大ペースも加速するなど感染動向は悪化の度合いを強めており、感染収束の見通しが立たない状況にある。なお、欧米など主要国においてはワクチン接種の広がりが経済活動の再開、正常化に向けた『切り札』となるなか、同国においてもムヒディン前政権がワクチン接種の加速化を図る取り組みを進めてきた。こうした動きを受けて、今月21日時点における完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は39.30%、部分接種率(少なくとも1回は接種した人の割合)も55.99%とともに世界平均(それぞれ24.32%、32.17%)を上回るなどASEAN内ではワクチン接種が進んでいると捉えられる。ただし、同国において接種されているワクチンの多くは中国製ワクチンが占めている上、中国製ワクチンを巡っては足下で感染が広がる変異株に対して効果が低いとの見方も示されており、ワクチン接種が進んでいるにも拘らず感染収束が見通せない状況にある一因になっているとみられる。さらに、足下においては感染拡大の動きが大都市部からワクチン接種の遅れている地方部に広がりをみせるなど、今後は事態が一段と悪化する懸念も高まっている。イスマイルサブリ新政権による政権運営はムヒディン前政権からほぼ継承されると見込まれ、ワクチン接種を前提に経済活動の正常化に舵を切るなど新型コロナ禍を経て疲弊した同国経済の立て直しを優先すると考えられるものの、感染動向に改善の兆しがみられないなかでの政府による『旗振り』が効果を挙げられるかは見通しが立たない。上述のように政権の屋台骨が極めて危ういなかでの政権運営はともすれば『遠心力』に繋がりやすいことを勘案すれば、与党連合内や各政党内における『腹の探り合い』が政策の停滞を招くなど事態打開を難しくさせる懸念がくすぶる展開が続くと予想される。

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以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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