対米関係が再びトルコ・リラ相場の波乱要因に

~米バイデン政権の「人権外交」は両国関係の新たな火種に、米中摩擦の新たな「舞台」となる可能性も~

西濵 徹

要旨
  • ここ数年のトルコ・リラは経済のファンダメンタルズの脆弱さに加え、対米関係の悪化も理由に調整してきた。なお、米議会はNATO加盟国であるトルコによるロシア製地対空ミサイル防衛システム導入を理由に強硬姿勢を強める一方、トランプ前大統領は慎重姿勢を維持してきた。しかし、バイデン大統領は24日にオスマン帝国によるアルメニア人殺害事件を「ジェノサイド」に認定し、トルコ政府は反発を強める。リラ相場は中銀による政策運営の不透明感を理由に調整圧力を強めるが、対米関係の悪化懸念が新たな重石になろう。
  • 足下のトルコでは変異株による新型コロナウイルスの感染再拡大に加え、死亡者数も拡大するなど事態は急速に悪化している。他方、中国による「ワクチン外交」を背景にワクチン接種は進んでいるが、中国との接近を背景に中国から亡命したウイグル人への「圧力」を強めるなど新たな火種となる兆候も出ている。トルコによる中国への接近は、同国が米中摩擦の新たな「舞台」となるリスクを高めることにも注意する必要があろう。

ここ数年のトルコ通貨リラ相場を巡っては、経常赤字と財政赤字の『双子の赤字』に加えて慢性的なインフレという経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱さに加え、隣国シリアでの内戦激化による地域情勢の不安定化のほか、欧米のみならず中東諸国などとの関係悪化という外交関係の不透明感の高まりも重なり、調整圧力を強める展開が続いてきた。特に、2018年には当時の米トランプ政権との間の関係悪化をきっかけに国際金融市場において急速にリラ安圧力が強まる『トルコ・ショック』が発生するなど、対外債務を巡ってデフォルト(債務不履行)に陥ることが意識されたことは記憶に新しい。しかし、その後はトルコ・ショックの直接的な『引き金』となったトルコ国内で逮捕、拘束された米国人牧師の身柄を釈放して米国に送還したことで対米関係に改善の兆しが出たほか1 、中銀も大幅利上げによる金融引き締めに動いたことに加え、世界経済の堅調さを理由に国際金融市場が落ち着きを取り戻したこともあり事態収束に向かった。その一方、トルコはNATO(北大西洋条約機構)加盟国であるにも拘らずロシア製地対空ミサイル防衛システム(S400)の導入を決定したことを受けて2 、米議会はトルコの政府高官及び軍関係者を対象に敵対者に対する制裁措置法(CAATSA)に基づく制裁を科すことを決議したほか、オスマン帝国末期における多数のアルメニア人が殺害された事件を民族大量虐殺(ジェノサイド)と認定する決議も可決するなど、米土関係の火種となる懸念はくすぶった。なお、トランプ前政権下においてはエルドアン大統領と米国のトランプ前大統領との間の『キャラクター』の類似性を指摘する向きもみられたものの、米国とトルコの関係の決定的な決裂は隣国シリアをはじめとする中東情勢のみならず、NATOの行方を通じて欧州やロシア情勢にも悪影響を与える懸念から、米議会による決議に対して署名を拒否する姿勢が採られた。ただし、昨秋に実施された米大統領選においてエルドアン大統領に対して元々不信感を抱いてきたバイデン氏が勝利したことを受けて、両国関係の行方に対する不透明感が高まることが懸念された3 。他方、トランプ前政権は昨年末に突如、トルコ大統領府国防産業庁(SSB)の武器調達部門を対象にCAATSAに基づく制裁を科すことを発表するとともに、バイデン政権に対して対トルコ政策を巡る『置き土産』を残すなど様々な影響を与えることが懸念された。なお、バイデン大統領は大統領選中に受けたドキュメンタリー映画の取材においてエルドアン大統領に対する不快感を示したほか、副大統領在任中の2016年に同国で発生したクーデター未遂事件への関与を示唆する発言を行ったことで、トルコ政府内でバイデン氏に対する反発が強まる動きがみられた 4。しかし、バイデン政権発足後の米国はトルコ問題について明確なスタンスを示すことは避けられてきたものの、今月23日にバイデン大統領就任後初めてエルドアン大統領との電話会談が行われ、6月にブリュッセルで開催されるNATO首脳会議に併せて直接会談を行うことで合意された一方、バイデン氏はオスマン帝国時代のアルメニア人大量殺害事件をジェノサイドに認定する意向をエルドアン大統領に伝えたとされる。事実、24日に米バイデン大統領が公表した声明では、オスマン帝国によるアルメニア人殺害事件をジェノサイドに認定して犠牲者を追悼するなど、政権発足以降進めてきた『人権重視』姿勢を改めて国内外に示した。これを受けて、トルコ政府では「ポピュリズム(大衆迎合主義)に基づく声明であり、完全に拒否する」(チャブシオール外相)との反応に加え、トルコ外務省も駐土米大使を呼び出して抗議したほか、大統領府も数ヶ月以内に様々な形で対抗策を講じる方針を表明するなど両国の関係悪化に繋がることは避けられそうにない。リラ相場を巡っては、先月末に中銀総裁が突如更迭されたほか 5、カブジュオール新総裁の下で初めて実施された今月15日の定例会合でも『タカ派』姿勢が取り下げられたことで調整圧力が強まっているが6 、今後は米国との関係悪化もリラ安を招く材料となることが懸念される。

図1
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なお、昨年来のトルコ経済を巡っては新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のパンデミック(世界的大流行)の余波を受ける形で深刻な景気減速に見舞われたものの、エルドアン政権は新型コロナウイルスの感染封じ込めを図る一方で実体経済への悪影響を極小化する姿勢を維持するとともに、財政及び金融政策を総動員する形で景気下支えを図る動きをみせた。結果、昨年の経済成長率は+1.8%と多くの主要国がマイナス成長を余儀なくされるなかでプラス成長を維持したものの、これは上述した2018年のトルコ・ショックの余波を受ける形で前年の経済成長率に下押し圧力が掛かった反動が影響していることを勘案すれば景気回復は道半ばと捉えられる 7 。さらに、先月以降は感染力の強い変異株による感染が再拡大する動きが強まるなか、この動きに呼応するように死亡者数も拡大傾向を強めるなど急速に事態は悪化している。なお、拡大傾向を強めた新規感染者数は足下においては頭打ちする兆候が出ているものの、人口100万人当たりの新規感染者数は約4500人と世界平均(約690人)を大きく上回る水準で推移するなど状況は極めて厳しい。こうしたことから、エルドアン政権は夏季休暇の時期に向けて行動制限を課すことを決定するとともに、状況如何ではさらなる厳しい措置の発動を余儀なくされているほか、こうした事態を受けて足下では家計部門を中心にマインドに下押し圧力が掛かる動きがみられるなど景気の下振れが避けられなくなっている。同国では中国製及びロシア製ワクチンの治験が実施されたことから、年明け以降は中国製ワクチンの接種が開始されている上、独自の国産ワクチンの開発も進められるなどの取り組みが進められている。結果、今月24日時点におけるワクチン接種回数は2100万回を上回っている上、接種人数も完全接種(必要な接種回数をすべて受けたもの)が795万人、部分接種(少なくとも1度は接種を受けたもの)が1310万人を上回る。この数字は人口当たりでみても、完全接種率が9.43%、部分接種率も15.55%と世界平均(それぞれ3.01%、7.03%)を大きく上回るなど、同国内におけるワクチン接種は前進していることを示唆している。こうした背景には、上述したようにエルドアン政権の下でここ数年に亘って欧米諸国のほか、他の中東諸国などとの関係が悪化する動きが顕在化するなかで、中国との間で対内直接投資などを通じて経済的な結び付きを強めており、足下では中国による『ワクチン外交』を背景にワクチン確保で中国が影響力を強めている。なお、このところの欧米諸国は中国国内における人権問題を理由に中国への批判を強めるなか、その対象であるウイグル人は民族的にトルコと近いことから、中国から逃れた多数のウイグル人はトルコに亡命して中国批判を展開してきたが、エルドアン政権は中国を意識して彼らに『圧力』を掛ける動きをみせている。今後、仮にエルドアン政権が米国と対立を強めるなかで『敵の敵は味方』との理屈を盾に中国との関係強化に動くことは、トルコ国内において新たな『火種』を抱えるリスクがあるとともに、トルコが米中摩擦の新たな『舞台』となる可能性にも繋がる。その意味では、トルコを取り巻く状況は様々な外交関係の思惑が入り混じる形で複雑化することは避けられないと言える。

図2
図2


以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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