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タイ憲法裁がセター首相の解職決定、政治空白が与える影響とは

~景気回復が遅れるなかでの政策空白、西側諸国との距離感に悪影響が出る可能性にも要注意~

西濵 徹

要旨
  • 14日にタイの憲法裁はセター首相の解職を命じ、同日付でセター氏は失職した。直接的な原因は、4月の内閣改造でかつて禁錮刑を受けたピチット氏の首相府相への登用が憲法における重大な倫理違反としている。昨年のセター政権樹立に際してはタクシン派と保守派が大連立を組み、タクシン氏も帰国直後は国軍との関係改善により恩赦を受けるなどの動きがみられた。しかし、仮釈放後の政治活動の本格化を受けて保守派の間にタクシン氏への警戒感が再燃し、タクシン氏は不敬罪で起訴されたほか、セター氏の解職が請願されるなど様々な形でタクシン派への圧力が強まり、最終的に再びの「司法クーデター」となった。同国はASEAN内でコロナ禍からの景気回復が最も遅れるが、政治空白により経済への悪影響は必至である。一連の動きは加盟申請中のOECDとの協議に悪影響が懸念される一方、BRICSとの協議には影響しないとみられ、西側諸国と近しい距離を維持してきた同国の立ち位置が変化する可能性に要注意である。

14日、タイの憲法裁判所は憲法に定められた倫理規定に反する行為を行ったとしてセター首相の解職を命じる判断を下し、セター氏は同日付で失職することが決定した。セター氏に対する解職要求は、セター政権が今年4月に実施した内閣改造においていわゆる『タクシン派』のタイ貢献党所属のピチット氏を首相府相に登用したことに端を発する。同氏はタクシン元首相の汚職疑惑を巡る裁判で弁護士を務めた際に担当判事に対する贈賄により逮捕され、後に法廷侮辱罪により禁錮刑を受けた経緯がある。なお、任命に際しては関係各所がその資格と適格性の確認を行ったものの、直後に王党派の保守系団体などが憲法裁判所にピチット氏の資格要件の調査を請願するとともに、議会上院(元老院)議員40人が連名で憲法違反を理由にセター首相の解任を請願する事態に発展した。一連の請願が出された直後にピチット氏は首相府相を辞任して事態収拾を図ろうとしたものの、憲法裁は請願を受理して審理を開始した。他方、5月末には検察当局がタクシン元首相を起訴する方針を明らかにし(注1)、その理由に同氏がかつて受けたインタビューのなかで王室に対する侮辱を禁じる刑法の不敬罪に抵触したことを挙げた。翌6月に検察当局はタクシン元首相を起訴し、旅券の提出と無断出国の禁止が命じられる一方、タクシン氏は保釈保証金50万バーツを納付して即日保釈が認められたものの、先月末にタクシン氏側が病気治療を理由にドバイへの渡航を申請するも裁判所は却下するなど事実上同国内に留まらざるを得ない状況にある。タクシン氏は昨年のセター政権発足直前に17年に及んだ海外逃亡から帰国するとともに、その後の恩赦を経て政界復帰に向けた道筋を再び描きだしていたものの、そうした流れは早くも見通しが立ちにくくなった格好である。王室に対する不敬罪を巡っては、今月7日に憲法裁が昨年の総選挙で大躍進を遂げた最大野党の前進党に対する解党命令のほか、同党の元幹部に対して10年間の公民権停止を命じる判断を下したほか(注2)、刑法では不敬行為1件について最高15年の禁固刑を科すと規定されており、保守派は民主派やタクシン派に対して様々な形で圧力を強めている。昨年のセター政権樹立に際しては、タクシン派を中心に王党派や親軍派など保守派が大連立を組み(注3)、帰国を果たしたタクシン氏も国軍などとの関係改善を図ったことで恩赦を受けるなどの動きに繋がった。しかし、恩赦を受けたタクシン氏が今年2月の仮釈放の後に政治活動を本格化させるとともに、上述の4月の内閣改造では腹心が閣僚入りを果たすなど政治的な影響力向上に繋がる動きがみられたことで保守派内では一転してタクシン氏やタクシン派に対する警戒感が強まり、結果的に保守派の意向が通りやすい憲法裁による『司法クーデター』に再び訴えたと捉えられる。セター氏の解職命令について、憲法裁は重大な倫理違反を理由に挙げるとともに、その票決は「5(賛成)対4(反対)」と割れたことを明らかにするなどギリギリの判断となった模様である。事実、賛成票は5月に請願書を受理した際の票決「6(受理)対3(不受理)」から賛成票が1票減少しており、憲法裁のなかでも度々繰り返されてきた司法クーデターに対する見解に変化が現れつつある様子がうかがえる。しかし、セター氏は就任から1年足らずで失職に追い込まれたほか、国会において新たな首相が選出されるまではプムタム副首相が暫定首相を務めることとなり、ASEAN主要国のなかでコロナ禍からの景気回復が最も遅れるなかでの政治空白は政策停滞も相俟って経済の足を引っ張ることは必至とみられる。なお、次期首相の選出を巡っては、議会下院(人民代表院:総議席数500)で半数を上回る賛成票を得る必要があるが、セター前政権を支える最大与党であるタイ貢献党の議席数は141に留まり、複数の政党からの協力を得る必要があるなど政党間の合従連衡の動きが激化することは必至である。さらに、その候補は昨年の総選挙において各政党が首相候補に指名している必要がある。連立与党内の議席数が多い順では、タクシン派のタイ貢献党はタクシン氏の娘で現党首のペートンタン氏、中道右派で保守派に近いタイ誇り党はアヌティン副首相兼内相、親軍派の国民国家の力党は党首のプラウィット氏、親軍派のタイ団結国家建設党はピラパン副首相兼エネルギー相などが挙げられるが、現実にはペートンタン氏とアヌティン氏の事実上の一騎打ち状態にある。とはいえ、総選挙後の政権樹立に時間を要したことに加え、今回のセター氏への解職命令を受けて各政党の間に疑心暗鬼の動きが広がっていることを勘案すれば、政治空白が再び長期化する可能性はくすぶる。上述のように景気回復が遅れるなか、セター前首相は景気下支えを目的に再三に亘って中銀に利下げ実施を要求する一方、国際金融市場における米ドル高を受けた通貨バーツ安を警戒して政権の要求を突っぱねる動きをみせてきたが(注4)、足下では米ドル高の一服を受けてバーツ相場は底打ちの動きを強めるなど状況は変化しつつある。バーツ相場の底打ちを受けて輸入インフレの懸念は後退しているものの、足下では食料品やエネルギーなど生活必需品を中心とする物価上昇が続いているほか、経済構造面で輸出依存度が相対的に高いなかでのバーツ高は輸出競争力の低下を通じて景気の足かせとなる懸念はくすぶる。財貿易を巡って最大の輸出相手であるとともに、外国人来訪者数の割合も最も多い中国景気も勢いを欠く推移が続いており、外需を取り巻く環境も不透明な状況が続いている。こうしたなか、政治を巡る不透明感が高まっていることは4月に加盟申請を行ったOECD(経済協力開発機構)との協議に悪影響を与える可能性がある一方、同時に加盟申請を行っているBRICSとの協議に影響することはないと見込まれる。タイを巡っては、元々東南アジアにおける反共同盟的な組織として発足したASEANの原加盟国であり、西側諸国と比較的近しい関係を維持してきたものの、世界的に分断の動きが広がるなかで政治的な問題をきっかけに西側諸国との間で相対的に距離が広がる可能性に注意を払う必要性が高まっていると捉えられる。

図表
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以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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