タイ中銀、金融市場でのバーツ安一服で利上げ局面の休止に舵

~現金給付策を加味しても景気、物価見通しを下方修正、政策運営は外部環境に晒される展開が続く~

西濵 徹

要旨
  • 昨年のタイでは、経済活動の正常化に商品高や米ドル高に伴うバーツ安が重なりインフレが上振れした。しかし、昨年末にかけて商品高や米ドル高は一巡したほか、物価抑制策も影響して年明け以降のインフレは頭打ちしている。9月に発足したセター政権は現金給付などバラ撒き政策の実施を計画しており、財政悪化懸念は金利上昇やバーツ安を招いた。しかし、足下のインフレは一段と鈍化し、米ドル高一服に伴いバーツ相場は底入れしており、中銀は29日の定例会合で9会合ぶりに政策金利を据え置き、利上げ局面を休止させた。中銀はデジタルウォレット政策を加味しても景気、物価ともに見通しを下方修正したほか、先行きの政策運営を巡ってタカ派姿勢を一段と後退させている。ただし、先行きのバーツ相場と金融政策を巡っては米FRBの政策運営という外部環境の影響を受けやすい展開が続くことは避けられないと見込まれる。

昨年のタイ経済は、コロナ禍が一巡して経済活動の正常化が進むなか、商品高による食料品やエネルギーなど生活必需品を中心とするインフレに加え、国際金融市場における米ドル高を受けた通貨バーツ安による輸入インフレの動きも重なり、インフレが大きく上振れする事態に直面した。しかし、多くのアジア新興国は物価と為替の安定を目的に金融引き締めに舵を切るも、タイ経済はコロナ禍からの景気回復が遅れる展開が続いたため、中銀は昨年8月に利上げに動いた後も小幅な利上げに留める姿勢をみせてきた。なお、インフレ率は昨年8月に14年ぶりとなる高水準となったものの、昨年末にかけては商品高と米ドル高の動きが一巡するなどインフレ要因が後退したため、こうした動きを追い風にインフレは頭打ちに転じた。さらに、インフレ抑制を目的に政府は電気料金や燃料価格の抑制措置に動いたことも追い風に、年明け以降のインフレは頭打ちの動きを強めて中銀目標の範囲内で推移してきたほか、足下では一段と下振れしてインフレ率もコアインフレ率もともに目標を下回る水準にある。一方、足下の景気を巡っては、インフレ鈍化による実質購買力の押し上げや世界的なデリスキング(リスク低減)を目的とするサプライチェーン見直しの動きが内需を下支えする一方、世界経済の減速懸念の高まりや外国人観光客の底入れ一服を受けて外需は下振れするなど、底入れの動きは続くも勢いを欠く展開が続いている(注1)。こうしたなか、9月に発足したセター政権は経済重視の姿勢をみせるなか、最低賃金の大幅引き上げ、年末までを対象に軽油減税と電気料金引き下げを目的とする補助金給付、農家を対象とする3年間の債務返済猶予措置、16歳以上の国民を対象にデジタルウォレットを通じた現金給付を政権公約に掲げている。一連のバラ撒き策を巡っては、政府が財源論を棚上げする動きをみせていることを受けて長期金利の上昇を招いているほか、先月初旬にかけてはバーツ安の動きが加速する一因になったことから、セター首相と中銀のセタプット総裁の間で経済政策を巡る見解に違いが表面化する動きも顕在化した(注2)。今月初めに政府が公表した具体策に基づけば、16歳以上の月収7万バーツ未満、且つ銀行預金が50万バーツ未満の国民を対象にデジタルウォレットを通じて6ヶ月間有効な1万バーツを支給するとしており、支給開始は来年5月の予定となっている(なお、デジタルマネーは実店舗でのみ使用可能)。他方、来年1月からは電子請求書を発行する企業から計5万バーツ以下の商品及びサービスを購入した場合に個人所得税を控除する新スキーム(E-Refund)の実施も予定しており、これらを通じてデジタルマネーの普及やオンライン消費の活発化を目指している模様である。とはいえ、同国の家計債務はGDP比で9割超とアジア新興国のなかでも突出している上、公的債務残高の拡大により現行法上の上限(GDP比7割)に近付くことが予想されるなど、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)を脆弱にすることが懸念される。ただし、足下のバーツ相場は米ドル高の動きが一服していることを反映して一転底入れの動きを強めているほか、世界経済の減速懸念が意識される形で原油価格も頭打ちするなど、インフレ要因は一段と後退している。こうしたなか、中銀は29日に開催した定例会合において政策金利を9会合ぶりに2.50%に据え置く決定を行うなど利上げ局面を休止させている。会合後に公表した声明文では、今回の金利据え置きは「全会一致」で決定された上、同国経済について「総じて回復が続いている」とした上で「来年、再来年にかけてもバランスの取れた景気回復を遂げると見込まれる」との見方を示している。一方、物価動向について「来年は景気回復とエルニーニョ現象による供給制約に伴い上昇が見込まれる」としつつ、政策運営について「経済が潜在成長率に向けて緩やかに回復するなかでは現在の水準を維持することが適切」との認識を示している。なお、景気見通しについて「今年は+2.4%、来年は+3.2%」と従来見通し(今年は+2.8%、来年は+4.4%)から下方修正し、「デジタルウォレット政策を勘案しても来年は+3.8%」との見方を示しつつ、「世界経済の構造変化に伴い外需の回復が進まないリスクはくすぶる」との懸念を示している。また、物価見通しも「デジタルウォレット政策を勘案しても今年は+1.3%、来年は+2.0%」と従来見通し(今年は+1.6%、来年は+2.6%)から下方修正する一方、「エルニーニョ現象による食料インフレと中東情勢のリスクを注視する必要がある」との見方を示している。その上で、先行きの政策運営について「物価安定と持続可能な景気拡大、金融の安定を目指す」との従来からの考えを改めて示すとともに、「今後の政策運営に当たっては景気と物価の動向とリスクに応じて適切に検討される」と9月の前回会合(注3)から一段とタカ派姿勢を後退させていると捉えられる。他方、バーツ相場を巡っては「米FRBによる政策運営の方向性を予測することが重要である」との考えを示しており、今後も外部環境の変化に晒されることを警戒しているとみられ、過度な変動が生じれば対応を迫られる可能性はくすぶる。よって、バーツ相場の行方も金融政策の方向性についても『外部環境如何』の様相を強めることが予想される。

図1 インフレ率の推移
図1 インフレ率の推移

図2 バーツ相場(対ドル)の推移
図2 バーツ相場(対ドル)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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