タイ、ファンダメンタルズの急速な悪化で慎重な政策運営が必須に

~感染動向改善の兆候も経済活動の正常化の成否は依然不透明、バーツ安の弊害も懸念される~

西濵 徹

要旨
  • このところのASEANは新型コロナウイルスの感染拡大の中心地となり、タイでも7月以降に感染が急拡大して行動制限の再強化に追い込まれるなど景気の下振れが避けられなくなっている。タイはワクチン接種が遅れてきたが、足下ではワクチン接種のすそ野が着実に広がるとともに、新規陽性者数は頭打ちするなど感染動向も改善している。結果、政府は行動制限の段階的解除に動いているほか、11月にはバンコクなどでワクチン接種済の外国人来訪者への隔離義務を撤廃するなど、「ポスト・コロナ」に向けて歩む動きがみられる。
  • 昨年来の新型コロナ禍を受けて、政府及び中銀は財政及び金融政策の総動員による景気下支えを図ってきた。ただし、足下では経常収支が赤字化するなかで通貨バーツ安の動きが強まるなど、輸出競争力向上の一方で対外債務負担の増大を招く懸念があるなか、中銀は追加緩和に動けない状況が続いている。中銀は29日の定例会合でも11会合連続で政策金利を据え置いたが、感染動向の改善を受けて先行きの景気見通しを改善させた。追加緩和に含みを持たせる姿勢は維持したが、現実には難しい状況が続くと予想される。
  • 政府は昨年来度重なる景気刺激策を実施し、公的債務残高は上限のGDP比60%に近付くなど財政余力は低下した。こうしたなか、政府は今月20日に公的債務残高の上限をGDP比70%に引き上げる決定を行うなど追加の歳出余地は拡大した。外貨準備高は国際金融市場の動揺に対する耐性は充分だが、経常収支と財政収支が悪化するなかで資金流出圧力が強まるリスクもあり、政策運営には慎重さが求められよう。

このところのASEAN(東南アジア諸国連合)は、感染力の強い変異株による新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染拡大の中心地となるとともに、感染対策を目的とする行動制限が再強化されるなど景気に冷や水を浴びせる懸念が高まるとともに、域内に張り巡らされているサプライチェーンを通じて日本のみならず、世界経済にも悪影響が出る事態となっている。こうしたなか、ASEAN内でも最も製造業をはじめとする産業集積の度合いが高い上、多数の日本企業が進出するタイでは7月以降、感染拡大の『第3波』の動きが顕在化したほか、政府は感染拡大の中心地である首都バンコク周辺などを対象に事実上の都市封鎖(ロックダウン)を実施したほか、その後も感染動向の悪化を理由に対象地域を広げるなど景気の足かせとなることが避けられなくなっている。なお、タイ政府は元々世界的なワクチン供給スキーム(COVAX)に参加しない方針を採るなどワクチン接種に後ろ向きの姿勢をみせたものの、欧米や中国など主要国においてワクチン接種の進展が経済活動の再開を後押ししたことを受けて、一転してワクチン接種を積極化する動きをみせている。ASEAN諸国は他の地域と比較してワクチン接種が遅れるなか、こうした経緯も影響してタイのワクチン接種動向は域内でも劣後してきたものの、中国によるいわゆる『ワクチン外交』を通じたワクチン供給のほか、米国や日本によるワクチン供給の受け入れなどを進めるとともに、6月にはタイ国内で英国製ワクチンのライセンス生産が開始されるなど供給体制の整備を進めている。こうしたことから、今月28日時点における完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は22.78%と世界平均(33.23%)を大きく下回る一方、部分接種率(少なくとも1回は接種を受けた人の割合)は42.27%と世界平均(44.85%)をわずかに下回る水準に留まるものの、ワクチン接種のすそ野は着実に広がっている。他方、上述の通り同国では7月以降変異株の流入により新規陽性者数が急拡大したものの、8月半ばを境に頭打ちしており、今月29日時点における人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)は174人とピークの半分近くとなるなど状況は大きく改善している。また、新規陽性者数の急拡大による医療インフラのひっ迫を受けて死亡者数も拡大ペースを強める動きをみせたものの、足下ではそのペースも鈍化するなど医療を取り巻く状況も改善する兆しがうかがえる。こうしたなか、政府は今月から首都バンコクを含む感染リスクが高いと指定した地域においても小売店や飲食店の営業制限を解除するなど経済活動の正常化に舵を切る動きをみせている。この背景には、行動制限の長期化に伴う景気減速により国民の間に政府の新型コロナ禍対策への不満が高まり、そうした不満が反政府デモに繋がっていることを危惧したものと捉えられる上(注1)、その後も行動制限を一段と緩和する動きをみせている。さらに、7月にはプーケット及びサムイ島でワクチン接種済の外国人観光客に対する隔離義務が撤廃されているが、感染動向の改善を受けて11月には対象地域に首都バンコクなど9地域を加えるなど観光振興を一段と図る方針も明らかにしている(10月からは隔離期間が短縮される)。このようにタイにおいては『ポスト・コロナ』に向けた動きを前進させる流れが広がりをみせているものの、アジア新興国においてはワクチン接種が進展したものの、それにも拘らず感染が再拡大するなど感染対策の難しさが露わになる動きもみられる(注2)。タイは『ポスト・コロナ』に向けた大きな一歩目に動き出していると捉えられるものの、このまま事態が進展するか否かは依然として見通しが立ちにくい状況にあると判断出来る。

図 1 ワクチン接種率の推移
図 1 ワクチン接種率の推移

図 2 新型コロナの新規陽性者数・累計死亡者数の推移
図 2 新型コロナの新規陽性者数・累計死亡者数の推移

昨年来の新型コロナ禍を経て、タイ政府及び中銀は財政及び金融政策を総動員することを通じて景気下支えを図る姿勢を強めてきたものの、タイ経済を巡ってはGDPの1割強を観光関連産業が占めるとともに同産業は外国人来訪者に大きく依存しており、世界的な人の移動の縮小により大きな打撃を受ける状況が続いている。他方、足下の国際金融市場においては年内にも米FRB(連邦準備制度理事会)が量的緩和政策の縮小に動くとみられるなど、新興国にとっては資金流出に繋がりやすい環境となっており、観光関連収入の縮小によるサービス収支の大幅な悪化を受けて経常収支は赤字化するなど、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)は急速に悪化している。こうした事態を受けて、足下の通貨バーツ相場は調整の動きを強めるなど資金流出の動きが強まる動きが確認されており、バーツ安は輸出競争力の向上に繋がる一方、近年の世界的な低金利環境を追い風に企業部門を中心に米ドルなど主要通貨による資金調達を活発化させてきたことを勘案すれば、バーツ安の進展は債務負担の増大を通じて幅広い経済活動の足かせとなるリスクがある。よって、中銀は追加緩和に含みを持たせる姿勢を示す一方で、現実には政策金利を据え置く対応を余儀なくされるなど難しい対応が続いており、29日の定例会合においても政策金利を11会合連続で過去最低水準の0.50%に据え置く決定を行った。会合後に公表された声明文では今回の決定が「全会一致」でなされたことが明らかになり、感染動向の改善を受けて8月の前回会合において票割れした状況から政策委員の間で景気認識が改善したとみられる(注3)。その上で、同国経済について「前回会合で示された見通しに近い回復が見込まれるが、不確実性は依然高い」としつつ、「ワクチン接種が進んで行動制限が想定より早く緩和されたことは景気の追い風になる」との見方を示し、「今年の経済成長率は+0.7%、来年は+3.9%になる」と今年については前回会合時の見通しを維持する一方で来年については+0.2pt上方修正している。他方、金融市場について「流動性は充分なものの、信用リスクの増大を受けて中小企業や家計部門を中心に不均一な状況にある」とした上で、バーツ相場についても「先進国の金融政策の動向やタイ経済を巡る不確実性が不安定な動きに繋がっている」とし、「国内外の金融市場の動向を注視する」との考えを示した。先行きの政策運営を巡っては「当局間の政策調整が重要」とする一方、財政政策面では「潜在成長率の向上に繋がる施策に注力すべき」とした上で、金融政策は「引き続き緩和的な金融環境の醸成に取り組むとともに、新型コロナ禍の影響を受けた分野への的を絞った流動性供給を通じて債務負担の軽減を促す金融及び信用措置の迅速化が重要」との考えを示した。その上で、「物価安定と持続可能な景気回復と金融安定の維持を図る」としつつ、「必要に応じて適切な手段を講じる用意がある」とするなど前回会合同様に追加利下げに含みを持たせたが、足下でバーツ安圧力が強まっていることを勘案すれば現実には難しいと判断せざるを得ない。

図 3 バーツ相場(対ドル)の推移
図 3 バーツ相場(対ドル)の推移

図 4 経常収支の推移
図 4 経常収支の推移

上述のように政府及び中銀は財政及び金融政策の総動員により景気下支えを図る動きをみせており、低所得者層を対象とする現金支給のほか、食料品など生活必需品の購入代金や電気及び水道料金などの補助、消費喚起策、自営業者や農業従事者などを対象とする低利融資、企業に対する雇用拡充支援、元利返済猶予及び債務返済スケジュールのリスケなど、幾度に亘って財政出動を伴う景気刺激策の実施を決定してきた。結果、昨年以降の公的債務残高は急拡大しており、公的債務管理法や予算手続法、財政責任法に基づく中期財政フレームワークにおいて公的債務残高はGDP比で60%を上限とすることが定められているものの、急上昇して上限に近付くなど財政余力が乏しくなっている。こうした事態を受けて、政府は今月20日に公的債務残高の上限をGDP比70%に引き上げる方針を決定しており、景気の先行きに対する不透明感がくすぶるなかで追加的な財政出動余地の拡大に動いている。他方、上述のように足下の経常収支は赤字化するなど対外収支構造が脆弱になっていることを勘案すれば、過度な財政出動により財政構造の脆弱さが高まることは経済のファンダメンタルズに対する懸念を高め得る。足下の国際金融市場においては、中国の不動産大手のデフォルト(債務不履行)懸念をきっかけに動揺しており、中国経済の減速懸念は中国経済への依存度が高いアジアをはじめとする新興国経済のリスク要因となることが懸念されるなか、タイの外貨準備高は国際金融市場の動揺に対する耐性は充分と判断出来る(注4)。ただし、経常収支と財政収支の悪化に歯止めが掛からない状況が長期化すれば、資金流出圧力が強まりバーツ安が加速するリスクを孕んでおり、今後はこれまで以上に慎重な政策運営が求められることになろう。

図 5 公的債務残高の推移
図 5 公的債務残高の推移

図 6 外貨準備高と ARA(適正水準評価)の推移
図 6 外貨準備高と ARA(適正水準評価)の推移

以 上

西濵 徹


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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