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ワクチン・パスポートが始動

~今後の様々な課題~

熊野 英生

要旨

ワクチン・パスポートの発行が、7月26日から各自治体の窓口で始まった。政府は、海外渡航時に利用してもらうことを念頭に置いているが、この証明書が国内民間事業者でも広範囲に利用されると、ワクチン接種を済ませた人達の利用促進につながり、ワクチン効果が早期に発揮されるだろう。

目次

政府の躊躇

政府は、7月26日から各自治体を窓口にして、ワクチン・パスポートの発行を開始した。政府は、接種済みの証明書を提供して、海外渡航で相手国入国時に活用してもらうことを想定している。国内でワクチン接種を示すときには、接種時に発行される「接種済証」や「接種記録書」を利用してほしいというのが政府の説明だ。国内で利用することを念頭に置いたものではないという建前を維持したいのだろう。これは、接種を済ませた人と、未接種の人の間で差別的扱いがあってはいけないという批判を気にしているからだ。筆者は、政府が「専ら海外向け」という建前があったとしても、広く国民向けにワクチン・パスポートが発行されることは大きな前進であると高く評価する。

筆者は、すでに過去のレポートで説明したが、コロナ禍での経済的混乱は、誰がウイルスに感染しているかが見えないことで、国民の間にすべての人が疑わしいという猜疑心が生まれて、消費が手控えられることが原因だ。不完全情報の下で疑心暗鬼が生じて、経済停滞が起こっている。これは、病理的不安というよりも、社会的不安による混乱なのだ。経済学の視点で捉え直すと、処方箋は「情報の見える化」であると理解できる。ワクチン接種を済ませた人が、接種証明を見せて行動すると、すでに接種済みの人達の間では一定の安心感が生まれる。ワクチン接種を受けた人は、消費など経済活動をコロナ以前まで戻すことができる。接種状況を「見える化」して安心できる範囲を明らかにすることはメリットが大きい。

海外渡航者の往来にも課題

政府は、海外渡航に関して、このワクチン・パスポートを利用すると言っているが、その対応にも大きな課題がある。日本から海外に渡航するときは、このワクチン・パスポートを見せても、隔離期間を免除されることがないケースが多い。各国間では、ワクチン接種を済ませたことを前提にして、自国の隔離期間を免除してくれれば、相手の隔離期間を免除するというように、お互いの条件を認めることが多い。日本が、他国のワクチン接種済みの人の隔離を免除しなければ、たとえワクチン・パスポートを持っていても、2週間の隔離義務を免除されない。それでは、枠組みを作っても、観光目的などの海外渡航は十分に増えて行かないだろう。この問題は、日本側のインバウンド受け入れの制限をどう緩和・解除していくかという今後の課題も絡んでいる。

すでに、EUでは7月1日からデジタルのワクチン・パスポートの運用を開始した。ハワイ州では、本土で発行されたワクチン接種証明書があれば、州内に入るための自主隔離などの義務を免除するようになった。米国では、州ごとにワクチン・パスポートの扱いに温度差がある。日本は、各国間でばらばらな渡航制限緩和のルールの統一を目指して、欧米・アジア諸国と対話していく必要があるだろう。

国内運用への展望

海外渡航に課題があるように、ワクチン・パスポートの国内運用にも課題がある。冒頭に述べたように、政府は自らが発行するワクチン・パスポートを利用して、国内向けの証明書として活用を促すことは慎重だ。

その点、筆者はもっと寛容であってよいと考える。すでに、宿泊業や飲食店、旅行会社では、ワクチン接種済みの人を対象にして、割引を付与するサービスを開始している。その活動は全国的に広がっている。ワクチン接種を済ませた人は、感染・発症リスクが低下するので、すでに接種を済ませた人同士で旅行や飲食を楽しみたいと考えている。そうしたニーズの受け皿として、ワクチン割引を提供しているのである。

過去1年半の期間に亘って、観光関連の需要は大きく落ち込んだ。最近でも、各種サービス業の中で観光関連の航空・鉄道、宿泊などは特に打撃が大きい。そうした業種がワクチン接種済みの人達同士で利用したいというニーズを実現するのに、ワクチン・パスポートは役立つ。国内観光支援策がほとんど停止している中で、2021年末にかけてワクチン・パスポートの利用が国内で行われることは景気回復を早い時期に促すことになる。サービス業がワクチン・パスポートを利用して、早期に接種済みの顧客の需要取り込みができれば、その下支え効果の意義は大きい。

国内旅行消費の回復を後押し

その恩恵がどこくらいになりそうかを試算してみよう。7月21日時点で、高齢者のうち2回接種を済ませた人は2,203万人(接種率62.1%)である。観光庁によると、2019年7~12月の国内旅行消費の実績は10.1兆円だった(観光庁)。それが2020年7~9月4.9兆円と前年比▲50.8%も減った。もしも、65歳以上の接種済みの62%(7月21日時点の接種率)の人が、2019年並みに戻すと仮定すれば、それだけでかなり大きな効果が見込める。消費者物価指数では、宿泊料・パック旅行の価格が▲9%程度も割引かれていた(2021年1~6月平均÷2019年8~12月平均)。その値引きを勘案した上で、65歳以上の高齢者の62%が2021年8~12月にかけて、2019年後半並みに消費水準を戻すときには、実額で+8,000億円ほどの回復が見込めそうだ(2021年8~12月の国内旅行消費を+16%押し上げ)。これは高齢者のワクチン効果が早期に国内旅行消費の押し上げに寄与した場合の試算値である。ワクチン・パスポートがなければ、この期間に全く発現されないとは言い切れないが、おそらくワクチン・パスポートがなければ、2021年8~12月という早い時期にはその一部分しか発現しないだろうと考えられる。ワクチン・パスポートは、観光業界に早期に恩恵をもたらす役割を果たすものだと考えられる。

いわゆる差別的問題

ここで注意したいことは、ワクチン接種をしていない人は、国内観光のツアーに参加できないという縛りをかけないことだ。ワクチン・パスポートは、ワクチン接種済みの人をグルーピングするために活用する。ワクチン接種済みのツアーに参加するときは、PCR検査を数日前に行って陰性証明をとることを選択できるようにする。そうした裁量の余地を設けることは、ワクチン接種の条件を柔軟化することになる。そうした代替案がある場合は、いわゆる差別には当たらない。

また、持病などがあって、ワクチン接種ができない人をどうするかという問題もよく話題になる。ワクチン接種をしたくてもできない人は、それを確認する証明書の発行を受けて、ワクチン接種済みのグループに入れるようにすることが望ましい。事情がある人は、感染リスクの少ないグループに入れることができるから安全性は高まる。政府は問題を解決する手法を建設的に考えてはどうだろうか。

ワクチン・パスポートの有効期間

今回のワクチン・パスポートの発行は、今後、さらにワクチン接種済みの人の割合が増えていき、そこから集団免疫が獲得されるまでに、国内でも必要性が高まるとみられる。ただ、集団免疫が獲得されるまでにかなり長い時間を要する可能性もあるので、決して短期間のニーズではなくなる可能性もある。

これは欧米でも事情は同じで、接種率が高まっても、6割くらいから進みにくくなるからだ。そうなると、集団免疫といわれる状態に完全に移行することも、時間がかかる可能性があると言える。そうしたリスク・シナリオを考えるときにも、ワクチン・パスポートを国内向けに利用する意味は大きいと言えるだろう。

熊野 英生


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熊野 英生

くまの ひでお

経済調査部 首席エコノミスト
担当: 金融政策、財政政策、金融市場、経済統計

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