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英EUが北アイルランド問題解決で合意

~スナク首相はEU再接近を模索~

田中 理

要旨
  • EU離脱後の北アイルランドの経済・政治環境の不安定化を受け、継続的に協議を重ねてきた英国とEUは28日、北アイルランドと英国本土を巡る新たな取り決めで合意した。関係見直しを北アイルランド自治政府に参加する条件としてきたユニオニスト政党・民主統一党(DUP)は、合意内容の受け入れに傾いている。スナク首相のEU再接近を警戒する保守党内の強硬離脱派による合意阻止の動きも不発に終わりそうだ。今回の合意がすぐさま英国の経済環境好転につながる訳ではないが、英EU間の貿易戦争のリスクを後退させ、経済貿易関係の改善につながることが期待できる。

英国と欧州連合(EU)は27日、英国のEU離脱後の北アイルランドの関係を定めた北アイルランド議定書の見直しで合意した。EUとの関係改善や再接近を模索するスナク首相は、4月10日の北アイルランド和平(ベルファスト)合意の25周年記念までの合意実現を目指していた。2016年の国民投票で離脱に投票したが、強硬離脱派から距離を置いてきたスナク首相の誕生や、ウクライナ情勢を巡る英国とEUとの協力機運の高まりも、合意の実現を後押しした。アイルランドを家系のルーツに持ち、同地域の平和安定に関心を寄せる米国のバイデン大統領も、合意実現後の南北アイルランド訪問を希望しているとされる。

新たな取り決め(ウインザー枠組み)では、①英国本土(グレートブリテン)から北アイルランドに向かう物品については、北アイルランドに留まる物品と北アイルランド経由でEU加盟国であるアイルランドに向かう物品とを区別し、前者については書類提出、規制検査、関税などが原則として不要となり(グリーン・レーン)、後者については書類や検査など通常の手続きが必要となる(レッド・レーン)、②最終仕向け地に応じた物品の区別を可能にするため、英EU間で新たなデータ共有やラベル表示のシステムを導入する、③EU規則で輸入が禁止されているソーセージや種芋などは北アイルランドに留まる限り、禁止対象から除外される、④北アイルランドから英国本土に物品を出荷する企業は、輸出申告書の作成が不要となる、⑤英国から北アイルランドを旅行するペットの飼い主は、北アイルランド経由でEU加盟国に移動しない限り、獣医が発行する健康証明書や狂犬病予防接種の証明書の提示が不要となる、⑥北アイルランドで利用・販売される医薬品は、英国の規制当局によって承認され、EUの規制当局(欧州医薬品庁)の承認が不要となる、⑦北アイルランドではEUのVAT規則が適用されるが、一部費目はその対象外となり、英国のVATや物品税が適用される、⑧北アイルランドに適用されるEU規則の割合は3%未満に縮小される、⑨EU規則を巡る紛争処理は欧州司法裁判所が最終的に管轄するが、新たなEU規則を導入する際に、北アイルランド議会が異議を提起することができ(ストーマント・ブレーキ)、英国との一体性を重視するユニオニスト(プロテスタント、英国系)とアイルランド民族の一体性を重視するナショナリスト(カトリック、アイルランド系)の双方が異議に同意する場合、適用されない。

EU加盟国であるアイルランドと英国の北アイルランドを隔てる約500キロの陸続きの国境線には、和平合意の趣旨に則り、いかなる物理的な国境施設も設置することができない特別の取り決めがある。かつての紛争時はアイルランドから北アイルランドのアイルランド系住民に軍事物資が輸送されるのを防ぐため、英国軍が国境線にバリケードを設置し、ヘリコプターなどで監視していた。現在は両国を隔てる国境線には、柵や看板など国境を感じさせるものは何もない。何らかの国境施設が設置されれば、今も水面下で活動するアイルランド系武装勢力の攻撃の標的となる恐れがあり、住民間対立を呼び起こしかねないためだ。英国とアイルランドは、EUのシェンゲン圏に類似した共通トラベル地域(CTA)を設置し、両国間の域内国境管理を撤廃するとともに、域外国境管理を共通化している。つまり、どちらか一方の国に入国した後は、パスポート検査なしに両国間を行き来できる。加えて、英国のEU離脱以前は、英国とアイルランドはともにEUの関税同盟や単一市場の一員だったため、両国間の物品移動時の関税や規制検査、動植物検疫などが必要なかった。ところが、英国がEUを離脱したことで、和平合意の趣旨に反しない形で、両国間の物品移動時の関税捕捉や規制検査をする必要が生じ、このことが離脱合意が難航する一因となった。

離脱を決めたジョンソン首相(当時)は、EU離脱後も北アイルランドにEUの関連諸規則を適用することで、南北アイルランド間の国境管理を回避すると同時に、北アイルランドとそれ以外の英国(グレートブリテン島に所在するイングランド、スコットランド、ウェールズ)との間で関税や規制上の検査を行うことを提案し、EUとの間で北アイルランド議定書を交わした。だが、北アイルランドを英国から事実上切り離すこうした解決策に対しては、北アイルランドの英国系住民が反発し、一部で放火事件などが発生した。また、英国企業が英国本土から北アイルランドへの物品出荷を継続するには、英国とEUの双方の関連規則に従う必要が生じ、事業コストの増加を嫌って、北アイルランドと英国間の物品売買が滞り、物資不足などが生じた。英国系住民の利益を守れなかったとして、北アイルランド政府を率いたユニオニスト政党である民主統一党(DUP)は昨年5月の北アイルランド議会選挙で議席を失い、ナショナリスト政党であるシン・フェイン党が議会設置以降で初めて最大勢力となった。ユニオニスト・ナショナリストの双方の利益を守るため、北アイルランドの自治政府は、ユニオニスト政党の第1党と、ナショナリスト政党の第1党が合同で政府を率いることが定められている。DUPは自治政府の発足を拒否し、英国とEUが北アイルランド議定書の見直しに合意し、ユニオニストの利益が損なわれないことを条件に、自治政府に参加する意向を示唆している。

DUPは新たな合意を支持する条件として、①全ての英国民が同じ権利を保障される、②貿易遮断を回避する、③北アイルランドとグレートブリテンを隔てるアイリッシュ海に国境を作らない、④北アイルランドに自らを統治する法律の制定について発言権を与える、⑤北アイルランドとグレートブリテン間の物品移動時の検査を回避する、⑥北アイルランド政府および議会の合意なしに北アイルランドとグレートブリテンを隔てる新たな規制上の障壁を作らない、⑦北アイルランドが英国の一部としての地位を低下させるには、北アイルランド国民の過半数の同意が必要とする憲法上の文言と精神を維持する―ことを挙げている。DUPは新たな合意内容を精査するとしており、最終判断を保留しているが、懸念は残っているが大きな進展があったと一定の評価をしている。週末にかけてスナク首相がDUPの説得に難航しているとの報道もあったが、今回の合意内容をDUPも概ね受け入れる可能性がある。

懸念された保守党内の強硬離脱派の合意阻止の動きは不発に終わりそうだ。政府の議定書見直しの方向性に異議を唱えていたジョンソン・トラスの両元首相は、合意後に沈黙を貫いている。デービス元離脱担当相、ベイカー北アイルランド担当相、ブレーバーマン内相など、強硬離脱派の重要人物は合意内容の支持に回った。ただ、紛争処理時の欧州司法裁判所の関与に反対し、スナク首相のEU再接近を警戒する強硬離脱派の一部は判断を保留している。強硬離脱派を中心とした議会グループ・欧州研究グループ(ERG)は28日にも集まり、合意内容について話し合う予定だ。

今回の合意を受け、英国は議会で審議中の北アイルランド議定書を一方的に書き換える法案を取り下げ、EUは議定書違反を巡る英国への法的措置を取り下げる。北アイルランドが英国全体の経済活動や貿易取引に占める割合はそれほど大きくなく(北アイルランドのGDPは英国全体の約2%)、今回の合意がすぐさま英国の経済環境の好転に結びつく訳ではない。ただ、議定書の一方的な見直しなどで揺さぶりをかけ、EUから有利な条件を引き出そうとしたジョンソン元首相の交渉方針から決別し、EUとの関係改善を模索するスナク首相の方針転換は、北アイルランド経済への打撃を和らげるだけでなく、英EU間の貿易戦争のリスクを後退させ、両地域間の経済・貿易関係の改善につながりそうだ。保守党の支持率低迷が続いており、3月の春季予算発表や5月の統一地方選挙をきっかけに、強硬離脱派が息を吹き返す恐れがある点には引き続き注意が必要となる。

以上

田中 理


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田中 理

たなか おさむ

経済調査部 首席エコノミスト(グローバルヘッド)
担当: 海外総括・欧州経済

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