デジタル国家ウクライナ デジタル国家ウクライナ

長期停滞論は過去のものか?

~2人の著名エコノミストの論争~

田中 理

要旨
  • 過去十数年の先進国経済は、低インフレと低成長が常態化する「長期停滞(セキュラー・スタグネーション」に見舞われてきた。コロナとウクライナ後の世界がこうした状況に戻るのかを巡って、米国の著名エコノミストの間で意見が割れている。長期停滞論の提唱者であったサマーズ元米財務長官は、相次ぐ巨額の財政出動で需要不足が穴埋めされ、長期停滞を克服したと主張する。MITのブランシャール教授は、インフレ率を加味した実質金利が依然マイナス圏にあり、長期停滞から抜け出していないと反論する。労働需給が逼迫する米国では、資源高だけでなく需要の強さが物価を押し上げており、サマーズ氏の主張がある程度当てはまりそうだ。資源高と円安が物価を押し上げる日本では、需要不足の状況が続いており、長期停滞から抜け出せずにいる。欧州は両者の中間で、政府やEUの財政出動も、需要不足を穴埋めするには至っていない。

ハーバード大学教授で米国の財務長官を務めたラリー・サマーズは2013年に、先進国経済が置かれている状況を「長期停滞(secular stagnation)」という言葉で表現した。米国の経済学者のアルビン・ハンセンが1938年に初めて使ったこの言葉は、名目金利が極めて低い状況にあるにもかかわらず、低インフレと低成長が長期化する状況を指す。そうした状況は既に1990年代の金融危機後の日本で観察されていたが、2000年代終わりの世界的な経済・金融危機後は、多くの先進国経済が大なり小なり似たような状況に陥った。中央銀行は政策金利を歴史的な低水準に引き下げ、大規模な資産買い入れに踏み出したが、世界的に経済成長は低迷し、ディスインフレが続いた。だが、新型コロナウイルスの世界的な大流行(パンデミック)とロシアによるウクライナ侵攻で、世界経済を取り巻く環境は様変わりした。各国は巨額の財政出動と金融緩和でパンデミック下の経済活動と国民生活を支えてきたが、コロナ後の労働者不足と資源価格の高騰により、持続的な高インフレに見舞われている。各国中銀はインフレ抑制に向けた積極的な利上げや量的引き締めを続けてきた。原油・ガス価格の沈静化や供給制約の緩和を受け、多くの国でヘッドラインのインフレ率はピークアウトしているが、企業の価格転嫁や賃上げの動きから、コア物価の高止まりが続いている。1月の米国の雇用統計の予想外の強さを受け、7日にFRBのパウエル議長がインフレ鈍化に時間が掛かると発言し、金融市場では早期の引き締め終了観測が後退した。

コロナ危機とウクライナ侵攻後の世界経済が長期停滞の状況に戻るのかを巡っては、米国を代表するエコノミストの間で見解が割れている。長期停滞論を世に広めたサマーズ氏は、1月7日にアメリカ経済学界の研究大会にパネリストとして録画出演し、コロナ危機時の大規模な景気刺激策によって、米国経済はもはや需要不足ではなくなり、長期停滞を克服したと論じている。技術進歩と高齢化による投資不足と貯蓄増加という長期停滞をもたらした構造的な要因は変わっていないが、政府債務の増加や歳出拡大が実質金利を引き上げ、気候変動対策の強化なども投資拡大につながると主張する。こうした見解に異を唱えるのが、マサチューセッツ工科大学教授でIMFのチーフエコノミストも務めたオリビエ・ブランシャール氏だ。最近この問題に関連した書籍を出版した同氏は、1月24日にシニアフェローを務めるピーターソン国際経済研究所のウェブサイトに寄稿し、長期停滞論がまだ終わっていないと論じている。そこでは、最近の金利上昇によって、経済成長率(g)よりもリスクフリーレート(r)が低い長期停滞の状況(r<g)が中断されたとの見方に疑問を呈し、米国の長短金利やFRBの予想に基づき、インフレ率を加味した実質金利が依然としてマイナス圏にあり、今も長期停滞が続いていると指摘する。サマーズ氏が指摘する政府債務の増加による実質金利の上昇については、影響がある(符号条件が正しい)ことを認めるが、そのインパクトがごく僅かであると反論する。同氏によれば、先進国の公的債務残高の対GDP比率は、2019年の75%から2022年の82%に増加したが、標準的な仮定の下でこれは15~30bp程度の金利上昇をもたらすに過ぎない。これまで先進国の貯蓄不足をもたらしてきた平均寿命の増加と所得水準の向上という構造的な要因は今後も不変で、国防費の増加や気候変動対策などで投資が活性化する可能性があるものの、貯蓄過剰を解消するには並外れた投資ブームが必要であると論じている。

どちらの主張が正しいかは、それぞれの経済が置かれている状況によっても異なる。労働需給が逼迫する米国では、資源高だけでなく需要の強さが物価を押し上げている。トランプ・バイデン両政権下のコロナ危機対応、インフラ整備に焦点を当てたインフラ投資・雇用法、気候変動対策に軸足を置いたインフレ抑制法など、相次いで巨額の財政出動を打ち出し、需要不足の状況ではない。これまでのところサマーズ氏の主張が当てはまりそうだ。だが、昨年の中間選挙で議会のねじれが発生し、バイデン政権の残りの任期は政策停滞が予想される。財政出動による需要の穴埋めが一巡した後も、長期停滞を克服したと言えるかは不安が残る。資源価格の高騰と円安による輸入物価の上昇が物価を押し上げている日本では、政府による度重なる経済対策にもかかわらず、需要不足の状況が続いている。一部で賃上げの動きもみられるが、物価高は全体として家計の実質購買力の目減りを招き、需要抑制につながりやすい。長期停滞から抜け出すのは容易でない。欧州は米国と日本の中間だろう。欧州の高インフレの主な原因は、ウクライナ侵攻によるロシア制裁の影響が直撃したためだ。生活費の高騰で賃上げを要求するストやデモが頻発しているが、労働需給の逼迫による持続的なインフレ圧力ではない。コロナ禍からの復興に必要な財政資金をEU加盟国に提供する復興基金を通じた投資活性化を目指しているが、需要不足を穴埋めするには至っていない。

以上

田中 理


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

田中 理

たなか おさむ

経済調査部 首席エコノミスト(グローバルヘッド)
担当: 海外総括・欧州経済

執筆者の最新レポート

関連レポート

関連テーマ