インド中銀、景気回復支援とオミクロン株の懸念を理由に現行の緩和継続

~ルピー相場を巡っては、ロシアとの関係強化による米国の制裁リスクなど新たな懸念にも要注意~

西濵 徹

要旨
  • 年明け以降のインドは、感染力の強いデルタ株により新型コロナウイルスの感染が再拡大し、行動制限の再強化を受けて景気は下振れした。しかし、その後はワクチン接種の積極化も追い風に感染動向は改善しており、人の移動や企業マインドも改善するなど景気は底入れしている。電力不足による悪影響が懸念されたが、当局は電力供給を優先させた結果、幅広い経済活動に悪影響が出る事態は避けられている模様である。
  • 昨年来の新型コロナ禍に伴う行動制限はサプライチェーンの混乱を通じて物価上昇を招いたが、足下のインフレ率は落ち着いた推移が続く。他方、昨年以降中銀は異例の金融緩和を通じて景気下支えを図っており、インフレの落ち着きを受けて8日の定例会合では政策金利及び政策スタンスを据え置き、現行の緩和姿勢を維持した。会合後に同行のダス総裁は、足下の景気が回復途上にあることやオミクロン株の影響を注視すべく、現行の緩和姿勢を維持する姿勢を示しており、当面は景気回復を優先した対応が続くと予想される。
  • インドは伝統的に「等距離外交」を志向してきたが、近年の中国との対立激化を受けて様々な動きを活発化させてきた。そうしたなか、6日にロシアのプーチン大統領が訪印して防衛及び貿易面の協力で合意した。合意ではロシアの軍事装備品購入が盛り込まれるなど、米国との関係悪化を招くリスクが懸念される。米バイデン政権が直ちに制裁発動に動く可能性は低いが、新たなリスクはルピー相場の重石となる可能性がある。

年明け以降のインドは、感染力の強いデルタ株による新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の感染拡大の中心地となったため、政府は感染爆発に見舞われた首都デリーやムンバイなど大都市を対象に外出禁止令の発動など事実上の都市封鎖(ロックダウン)の実施による行動制限に動いた。他方、同国は平時における世界的なワクチン製造大国であるなか、政府は感染爆発を受けて国内のワクチンメーカーに国内供給を優先させる『囲い込み』に動くなど、ワクチン接種を積極化させる動きをみせた。インドにおいては5月上旬にかけて新規陽性者数が急拡大したほか、死亡者数も拡大ペースを強めるなど感染動向は急速に悪化したものの、こうした動きを受けてその後の新規陽性者数は一転頭打ちしている。なお、今月6日時点におけるワクチンの完全接種率(必要な接種回数をすべて受けた人の割合)は34.84%に留まるも、部分接種率(少なくとも1回は接種を受けた人の割合)は58.18%と国民の6割弱がワクチンへのアクセスを確保するなどワクチン接種は一定程度進んでいる。結果、足下における人口100万人当たりの新規陽性者数(7日間移動平均)は6人とピーク(289人:5月8日)から大きく低下しているほか、死亡者数の拡大ペースも鈍化するなど感染動向は大きく改善している。さらに、感染動向の改善を受けて人の移動は底入れの動きを強めているほか、行動制限の再強化を受けて下押し圧力が掛かった企業マインドも製造業、サービス業問わず大きく改善するなど、景気の底入れを示唆する動きが確認されている。事実、7-9月の実質GDP成長率は前年比+8.4%と過去最大のプラス成長を記録した前期(同+20.1%)から伸びは鈍化しているものの、当研究所が試算した季節調整値に基づく前期比年率ベースでは2四半期ぶりのプラス成長となるなど景気は底打ちしているほか、供給サイドの統計であるGVA(総付加価値)ベースでも同様の動きが確認されている(注1)。その後も感染動向の改善が進んでいることを受けて、人の移動は着実に底入れの動きを強めているほか、企業マインドも改善して製造業、サービス業ともにデルタ株による感染再拡大の直前の水準をうかがうなど、足下においては再び新型コロナ禍の影響を克服しつつあると捉えることが出来る。他方、インドは電力エネルギーの約6割を石炭火力発電に依存しており、経済活動の正常化に伴う電力需要の拡大が進む一方、石炭の国際価格の急騰に伴い国内で石炭需給がひっ迫するなど電力不足に陥ることが懸念された(注2)。こうしたことから、政府系採炭・精製会社は電力部門以外の企業に対する石炭供給を一時停止するなど、電力供給を重視することで幅広い経済活動への悪影響の最小化を図る取り組みを進めてきた。足下においては、同国北部において大気汚染対策を理由に火力発電所の稼働停止に動いたことを理由に停電が発生するなどの動きはみられるものの、全土で電力不足に陥る事態は避けられている模様である。

図 1 COVID-19 コミュニティ・モビリティ・レポートの推移
図 1 COVID-19 コミュニティ・モビリティ・レポートの推移

図 2 製造業・サービス業 PMI の推移
図 2 製造業・サービス業 PMI の推移

他方、昨年来の新型コロナ禍対応を目的とする行動制限の動きは、サプライチェーンの混乱が生鮮品を中心とする食料品価格の上昇を通じてインフレ率の上振れを招くなど、家計消費を中心とする内需が経済成長のけん引役となってきたインド経済の足かせになることが懸念された。その後は感染収束や行動制限の緩和を受けてサプライチェーンの回復が進む一方、昨年後半以降の世界経済の回復を追い風に原油をはじめとする国際商品市況は上昇の動きを強めている。国内における原油消費量の約7割を輸入に依存していることから、原油価格の上昇は物価上昇のみならず、対外収支の悪化を通じて経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱さに繋がる。さらに、国際金融市場においては米FRB(連邦準備制度理事会)による『タカ派』傾斜が意識されて米ドル高圧力が強まるなか、インドの通貨ルピー相場に調整圧力が掛かるなど、輸入物価を通じてインフレ昂進を招くことが懸念された。しかし、年明け以降のインフレ率はデルタ株による感染拡大に伴う混乱を受けて一時的に上振れしたものの、その後は中銀(インド準備銀行)が定めるインフレ目標の範囲内で推移するなど落ち着いた動きをみせている。なお、中銀は昨年以降、新型コロナ禍対応を目的に利下げ実施に加えて量的緩和政策を通じて金融市場への流動性供給を実施するとともに、事実上の『財政ファイナンス』に動くなど異例の金融緩和を通じて景気下支えを図ってきた。中銀を巡っては、2018年12月にパテル前総裁が政権との関係悪化などを理由に辞任し(注3)、後任総裁に元財務次官でモディ政権と関係が近いとされるダス氏が就任し(注4)、ダス氏の下で『ハト派』姿勢を強めてきた経緯がある。他方、昨年来の新型コロナ禍対応では金融市場との積極的な対話を通じて混乱回避に努めてきたなか、今月10日に迫る任期満了を前に再任が決定されており、向こう3年間に亘って引き続き金融市場との対話に努めることが期待されている。こうしたなか、中銀は8日に開催した定例の金融政策委員会ですべての政策金利(レポ金利、リバースレポ金利、MSF金利)を据え置くとともに、政策スタンスも「物価を目標域内に収めるとともに、持続的な景気回復と新型コロナ禍による経済への悪影響を緩和すべく必要な限り緩和的なスタンスを継続する」との方針を維持した。会合後に公表された声明文では、世界経済について「地政学リスクやオミクロン株の発現、サプライチェーンを巡る混乱、エネルギー資源価格の上昇が重石になっている」とする一方、同国経済については「需給双方でモメンタムの回復が続いている」との見方を示すとともに、先行きの経済成長率について「今年度は+9.5%(10-12月(+6.6%)、1-3月(+6.0%)、来年度も4-6月(+17.2%)、7-9月(+7.8%)になる」との見方を据え置いた。また、物価動向については「上下双方のリスクバランスは幅広く均衡している」として、インフレ率は「今年度は+5.3%(10-12月(+5.1%)、1-3月(+5.7%)、来年度も4-6月(+5.0%)、7-9月(+5.0%))で推移する」との見通しが示された。なお、政策決定を巡っては、政策金利の据え置きは前回会合同様に全会一致で決定される一方、政策スタンスについては前回会合に続いて「1名(ヴァルマ委員(インド経営大学院アーメダバード校教授))が留保した」として、景気回復が進むなかで政策の『正常化』を意識する向きが出ている模様である。他方、会合後にダス総裁が行ったオンライン会見では、足下の同国経済について「経済活動のキャッチアップが続いているが、緩みがある上に家計消費は新型コロナ禍の影響が及ぶ前の水準に留まる」との認識を示した上で、オミクロン株の影響を注視すべく、先行きの政策運営について「必要に応じて適切な手段で流動性の微調整を行う」としつつ「力強く、持続力ある包摂的な景気回復を実現することが我々の使命である」との考えを示すなど、引き続き景気回復を重視する姿勢をみせている。よって、当面の金融政策は景気下支えに向けた取り組みが維持される可能性が高いと見込まれる。

図 3 インフレ率の推移
図 3 インフレ率の推移

図 4 貿易動向の推移
図 4 貿易動向の推移

他方、国際金融市場においてはインドを巡るある動きの影響に注目が集まっている。インドは伝統的に特定の国との関係を強化することのない『等距離外交』という立場を取ってきたものの、近年は中国との間で国境問題やインド洋進出を巡る対立が激化するなか、米国や日本、豪州との間でQUAD(日米豪印戦略対話)に動いているほか、歴史的に近しいロシアとも関係を深める動きがみられる。こうしたなか、6日にロシアのプーチン大統領が訪印してモディ首相と会談し、貿易問題やアフガニスタン問題をはじめとする防衛問題などを巡って協議を行った。会談後に発表された共同宣言では、軍事装備品の製造を巡る共同開発を含む防衛協力の強化のほか、ロシアによる原油や石炭供給などエネルギー支援で合意がなされ、なかでも軍事協力を巡っては、ロシア製自動小銃(AK―203)のインド国内での生産やロシア製地対空ミサイル防衛システム(S-400)の供給継続などが盛り込まれている模様である。ロシア製軍事装備品の導入を巡っては、米国が2017年に制定した対敵対者制裁措置法(CAATSA)に抵触する可能性があり、実際にS-400を導入したトルコに対して米国がトランプ前政権の下で同法に基づく制裁を課したことは記憶に新しい。米バイデン政権は中国への対抗姿勢を強めるなか、今回の動きを以って直ちにその『切り札』のひとつであるQUADの一角であるインドに対して制裁を課すとは見込みにくい。しかし、経済のファンダメンタルズが基本的に脆弱ななかでの新たなリスクは、中銀による緩和姿勢の継続と相俟って通貨ルピー相場の重石となる可能性には注意が必要と言えよう。

図 5 ルピー相場(対ドル)の推移
図 5 ルピー相場(対ドル)の推移

以 上

西濵 徹


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西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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