インド、世界有数の「ワクチン生産国」の背後にある不都合な真実

~生産国ながら人口対比の接種率は低水準、足下では感染再拡大による悪影響が顕在化~

西濵 徹

要旨
  • インドでは新型コロナウイルスのパンデミックに際しても感染発見が遅く、当初は封じ込めに成功したかにみられた。しかし、唐突な外出禁止令発動が反って感染拡大を促すとともに、深刻な景気減速を受けて感染収束にほど遠い状況ながら経済活動の再開に動くちぐはぐな対応が続いた。他方、昨夏をピークに新規感染者数は鈍化するとともに、ワクチン生産を追い風に接種が進められる動きもみられた。ただし、接種回数は人口対比で低水準な上、足下では感染が再拡大する動きもみられるなど、感染動向は再び不透明となっている。
  • 政府による経済活動優先の取り組みや世界経済の回復期待も重なり、足下の企業マインドは回復感を強めるなど景気の底入れが進んでいるとみられる。ただし、企業マインドの改善にも拘らず雇用調整圧力がくすぶる上、足下では原油など商品市況の底入れを受けてインフレ圧力が強まるなど、経済成長のドライバーである家計消費への悪影響が懸念される。政府の強硬な構造改革は農家や銀行などの反発を招くなど、地方選挙の行方や議会上院を通じて政権運営に影響を与えるなど景気動向の不透明要因となる可性もある。

インドでは昨年、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のパンデミック(世界的大流行)を受けて全世界的に感染抑制に向けた取り組みが進められるなかでも、同国内における感染確認が比較的遅かったことから、当初は感染封じ込めに成功しているかにみられた。しかし、昨年3月後半にかけて感染者数が急拡大したため、政府は同月末に突如全土を対象とする事実上の外出禁止令の発動に踏み切ったものの、下準備なく唐突に実施されたことに加え、折からの景気減速の長期化に伴う雇用環境の悪化を受けて大移動を誘発した結果、都市部から地方部に感染が拡大する事態を招いた。その後も宗教行事や大都市周辺のスラム街などがクラスター(感染者集団)化して感染がまん延する事態となり、昨秋にかけては新規感染者数が拡大傾向を強めるなど、同国は新型コロナウイルスの感染拡大の中心地となった。ただし、外出禁止令の長期化により幅広い分野で企業マインドが急激に悪化するなど景気の急ブレーキが懸念される事態となったため、政府は昨夏以降に全土を対象とする外出禁止令を解除する一方、感染状況の厳しい地域に限定して行動制限を課すなど対応を変更させた。さらに、経済活動の再開に併せて、政府及び中銀は財政、金融政策を総動員して景気を下支えしており、巨額の財政出動や事実上の量的緩和政策に動くなどの取り組みを進めてきた。なお、インドは慢性的な経常赤字と財政赤字の『双子の赤字』を抱えるなど経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)は脆弱な構造を有するなか、こうした対応はファンダメンタルズのさらなる悪化を招く懸念があるにも拘らず、モディ政権はなりふり構わず経済活動を重視する姿勢を強めている。こうした背景には、一昨年に行われた総選挙においてモディ首相率いる与党・インド人民党(BJP)はナショナリズムを喚起することで地滑り的な大勝利を収めるなど政権基盤は盤石になったものの(詳細は一昨年5月24日付レポート「インド総選挙、与党の「地滑り的大勝利」でモディ政権継続へ」をご参照下さい)、景気減速の長期化を受けて政府への不満もくすぶるなか(詳細は昨年1月7日付レポート「「今年のリスク」に挙げられたインド・モディ政権が直面する内憂外患」をご参照下さい)、経済活動を優先せざるを得ない事情が影響している。他方、インドは近年ジェネリック医薬品の世界的な生産拠点の一角として存在感を示すなか、感染拡大の中心地となったことも重なり様々なワクチンに関する臨床試験が実施されるとともに、様々なワクチンが生産される動きがみられる。年明け以降にはワクチン接種も開始されており、政府は今年8月までに3億人を異対象に無償でワクチン接種を行う世界最大の摂取計画を発表するなど、ワクチン接種に向けた取り組みは着実に前進してきた。こうしたことから、足下における累計の感染者数は1,165万人弱と米国、ブラジルに次ぐ水準ながら、昨秋以降の新感染者数は頭打ちの動きを強めてきたほか、累計の死亡者数は16万人弱と感染者数に対して低水準に抑えられる展開が続いてきた。また、ワクチン接種に当たっては昨年実施された低所得者層向けの現金給付策で用いられた『マイナンバー制度』であるアーダールが活用されるなど、政権が推進する政策の柱の一つ(デジタル・インディア)が後押しすることが期待された。しかし、今月に入って以降は新規感染者数が再び拡大する『第2波』が顕在化しており、足下では新規感染者数の再拡大とともに死亡者数も再拡大するなど医療状態が急速に悪化する動きもみられるなか、感染状況が深刻な州では行動制限が再強化されている。この背景には、今月末以降に5つの州など(アッサム、ケララ、西ベンガル、タミル・ナードゥ、ポンディシェリ連邦直轄領)で地方選挙の実施が予定されるなか、選挙活動に際して社会的距離(ソーシャル・ディスタンス)規制やマスク着用などが徹底されない事例が相次いでいるほか、宗教行事などの集まりも影響しているとみられる。さらに、上述したように同国は世界有数のワクチンの生産拠点ではあるものの、国内における接種回数の人口比は他の国々と比較して低水準に留まるなどの問題を抱える(これまでの接種回数は4,400万回分)。政府はこれまでに6,000万回分以上のワクチンを世界76ヶ国に対して無償配布及び販売するなど『ワクチン外交』を展開しているが、これは同国内での生産に関する契約の一環として実施されているとみられ、国内供給が充分になされない事情に繋がっている。また、地方部においてはすでに医療ひっ迫状態に陥る動きもみられるほか、ワクチン接種の環境も整わない状況にあることを勘案すれば、同国における新型コロナウイルスを巡る状況は依然として不透明と捉えることが出来よう。

図1 新型コロナの新規感染者・死亡者(累計)の推移
図1 新型コロナの新規感染者・死亡者(累計)の推移

インド経済を巡っては、昨年10-12月の実質GDP成長率が前年比+0.4%と3四半期ぶりのプラス成長に転じているほか、供給サイドの統計である実質GVA(総付加価値)成長率も同+1.0%とともに3四半期ぶりのプラス成長となるなど景気の底入れが進んでいることが確認されている(詳細は1日付レポート「インド、2020年10-12月は3四半期ぶりのプラス成長に転じる」をご参照下さい)。また、政府は上述のように経済活動を優先する姿勢を強めている上、中国をはじめとするアジア新興国のみならず、欧米など主要国でも経済活動の正常化が進むなど世界経済の回復を促す動きが広がりをみせており、企業マインドは製造業のみならず、サービス業においても好不況の境目となる水準を上回る推移が続いており、足下においても景気の底入れが続いている様子がうかがえる。なお、なかでも製造業の企業マインドは過去数年ぶりの高水準となるなど活況を呈する動きをみせているにも拘らず、雇用に関する指標は依然として調整圧力がくすぶる上、回復の動きがみられたサービス業においても再び雇用調整圧力が強まるなど、景気回復の足を引っ張ることが懸念される。また、昨年後半以降における世界経済の回復期待の高まりに加え、OPEC(石油輸出国機構)プラスの枠組による協調減産の動きも重なり原油をはじめとする国際商品市況はれの動きを強めるなか、こうした動きを反映して企業部門の調達価格が大きく上振れしており、商品価格に転嫁する動きもみられるなどインフレ圧力が高まる動きがみられる。こうした状況を反映して頭打ちの動きを強めてきたインフレ率が底打ちしており、足下のインフレ率は中銀の定めるインフレ目標の範囲内に収まる展開が続いているものの、今後は商品価格の上昇圧力などが上振れ要因となり、経済成長のドライバーとなってきた家計消費の足かせとなることが懸念される。なお、このところの国際金融市場においては米長期金利の上昇をきっかけに新興国への資金流入の動きに陰りが出る兆候がうかがえるなか、底入れの動きをみせてきた通貨ルピー相場のほか、主要株式指数(ムンバイSENSEX)の上値が抑えられるなど悪影響が顕在化する兆しも出ている。モディ政権は『新型コロナ禍』を構造改革のきっかけとすべく、新法制定を通じて農業改革を推進する姿勢を強めるも農家が強硬に反発する動きをみせているほか(詳細は1月13日付レポート「インド、新型コロナの状況に改善の兆候も、農業改革が招く新たな懸念」をご参照下さい)、4月からの来年度予算で銀行セクターの不良債権処理を盛り込むなど銀行セクター改革を推進する姿勢をみせるが(詳細は2月3日付レポート「インド、2021-22年度予算は「新型コロナ対策」と「景気対策」がテーマ」をご参照下さい)、関連業界の反発は根深い。こうした状況は地方選挙の動向に加え、議会上院の構成を通じて政権運営にも影響を与えるとともに、構造問題が景気回復の足を引っ張る要因となり得ることを勘案すれば、インド経済を巡る状況には新型コロナウイルスの感染動向を含め、依然として不透明感が漂うことは避けられないと言えよう。

図2 製造業・サービス業PMI(雇用)の推
図2 製造業・サービス業PMI(雇用)の推
図3 インフレ率の推移
図3 インフレ率の推移
図4 ルピー相場(対ドル)と主要株式指数の推移
図4 ルピー相場(対ドル)と主要株式指数の推移

西濵 徹


本資料は情報提供を目的として作成されたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。作成時点で、第一生命経済研究所が信ずるに足ると判断した情報に基づき作成していますが、その正確性、完全性に対する責任は負いません。見通しは予告なく変更されることがあります。また、記載された内容は、第一生命保険ないしはその関連会社の投資方針と常に整合的であるとは限りません。

西濵 徹

にしはま とおる

経済調査部 主席エコノミスト
担当: アジア、中東、アフリカ、ロシア、中南米など新興国のマクロ経済・政治分析

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