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英EU間に貿易戦争の影

~北アイルランド議定書の運営見直しを巡る緊張が激化~

田中 理

要旨

移行期間終了後の北アイルランドでの物流混乱や暴動発生を受け、英国政府はEUに対して北アイルランド議定書の運営見直しを求めている。協議は難航が続いており、事態の打開が期待されたG7会合でも両者の溝は埋まらなかった。英国は北アイルランドの混乱回避のため、EUの動植物検疫適用の猶予期間延長を一方的に決定。延長後の期限が6月末に迫るなか、英国が再び猶予期間を延長すれば、両者の緊張が高まりかねない。今のところ事態がそこまでエスカレートする可能性は低いが、最悪の場合、英国が北アイルランド議定書を一方的に破棄し、EUが報復措置として英国からの輸入品に関税を賦課することなどが想定される。

英国のEU離脱協議の大きな障害となったのが、離脱後の英国が唯一EU加盟国と陸続きで国境を接する南北アイルランド間の国境管理の問題だった。英国を構成する4つのカントリー(一定の自治が認められるが主権国家ではない)の1つである北アイルランドでは、1960年代後半から2000年前後にかけて、英国との一体性を重視する多数派のプロテスタント系住民(ユニオニスト)とアイルランドに帰属意識を持つ少数派のカトリック系住民(ナショナリスト)との間で緊張が激化し、武力衝突に発展した。紛争当時、アイルランドから北アイルランドのナショナリストに軍事物資が渡るのを防ぐため、英国軍は国境地帯にバリケードや監視施設を築いた。こうした紛争時の記憶を呼び起こし、住民間の緊張を再燃させないため、1998年に交わした和平合意では南北アイルランド間にいかなる物理的な国境を設けることが禁止された。

英国のEU離脱に伴い、英国とEUでは異なる規制が適用されるため、EUはこの国境地域が規制の抜け道となることを警戒した。最終的に英国とEUは、離脱後(移行期間終了後)の北アイルランドにEU規則を適用する形の解決策で合意し、離脱協定の付帯文書として北アイルランド議定書(プロトコル)を交わした。議定書の具体的な運営方法については、英EUの合同委員会で協議し、①将来関係協議で合意できなかった場合も、98%の物品の関税徴収を免除する、②北アイルランドから英国本土に出荷する際の輸出申告書の提出を免除する、③北アイルランドの食品輸入業者がEUの食品安全証明を取得することを3ヶ月免除することで合意した。

だが、実際に移行期間が終了すると、北アイルランドでは英国本土との物品取引時に通関や規制上の検査が必要となったり、食品安全証明の取得に伴うコスト高が嫌気され、英国本土との経済活動が停滞し、物流混乱や食品不足が発生した。北アイルランドを英国から切り離す解決策にユニオニスト住民の不満が高まっており、北アイルランドの各地でデモや暴動も頻発している。北アイルランド議会の第一党で北アイルランド政府を率いるユニオニスト政党の民主統一党(DUP)は、英国政府に対して北アイルランド議定書の見直しと、議定書第16条のセーフガード条項の発動を求めている。同条項は議定書の適用が経済・社会・環境上の困難をもたらす場合、一方的な措置を行うことを認めている。DUPはさらに北アイルランド議定書が連合王国の一体性を損なうとして法的検討の開始を指示した。この間、北アイルランドの第一首相を務めるDUPのフォスター党首の要求が生ぬるいとして党内から不信任案が提出され、同氏は6月14日に第一首相を辞任した。後継党首にはより強硬派とされるプーツ北アイルランド農業・環境・地方相が選出され、第一党の党首が第一首相を兼務する慣例を破り、ギヴァン北アイルランド地域社会相が第一首相に指名された。

北アイルランド議定書の運営見直しを模索する英国とEU間の協議は難航している。英国のフロスト離脱担当相とEUのセフコビッチ欧州委員が協議を重ねているが、両者の溝は大きい。英国のジョンソン首相はEU側が運営見直しに応じない場合、第16条に基づく一方的な措置の発動も辞さない方針を再三示唆している。主要関係者が一堂に会すとともに、北アイルランド和平に関心を寄せる米国のバイデン大統領(家系のルーツがアイルランド)が出席することもあり、英国のコーンウォールで開かれたG7会合での協議の進展も期待されたが、結局、両者の溝は埋まらなかった。

英国がEUの食品安全基準の適用回避を目指すのは、北アイルランドの緊張緩和だけが目的ではない。EUは英国に対して食品安全基準の動的な調和(将来にわたるEUルールの受け入れ)を求めている。英国の貿易交渉担当者の間には、今後もEUの厳しい食品安全基準に従うことを余儀なくされれば、米国との自由貿易協定(FTA)締結が難しくなるとの懸念がある。EUが禁止するホルモン剤を投与した牛肉や塩素消毒された鶏肉の取り扱いは、米国とEU間の貿易協議の重大な障害となってきた。

北アイルランドでの混乱発生を受け、英国政府はEUの動植物検疫の適用を免除する猶予期間を3ヶ月間延長することを一方的に決定した。EU側はこれに猛反発し、欧州司法裁判所の関与や調停パネルの設置など法的措置の検討を開始している。延長後の期限が6月末に迫るなか、英国が再び一方的に猶予期間を延長すれば、両者の緊張が一段と高まりかねない。事態の打開が図られないまま、英国が第16条発動で議定書を一方的に破棄するようなことがあれば、EU側は英国からの輸入品に関税を賦課するなどの報復措置を検討することになろう。英国とEUが交わした離脱協定には双方による報復措置に関する取り決めがある。今のところ事態がそこまでエスカレートする可能性は低いが、北アイルランド問題をきっかけとした両者の緊張激化に注意が必要となる。

以上

田中 理


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田中 理

たなか おさむ

経済調査部 首席エコノミスト(グローバルヘッド)
担当: 海外総括・欧州経済

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