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離脱後も残る“合意なき離脱”のリスク

~英国の第16条発動とEU側の報復措置~

田中 理

要旨
  • EU離脱後の北アイルランドの運営方針を巡って、英国とEU間の協議は平行線を辿っており、11月下旬から12月初旬にかけて、英国が北アイルランド議定書の一部効力を停止するセーフガード条項(第16条)の発動に踏み切るとの観測が高まっている。EU側は英国からの物品に対する関税賦課や国境検査の強化などの報復措置の可能性を示唆している。最悪の場合、移行期間終了後の英EU関係を定めた「貿易協力協定」の効力停止も念頭にあるとされる。これは過去の離脱協議で不安視された“合意なき離脱”が遅れて発生することを意味する。

英国が11月末にも北アイルランド議定書の第16条を発動し、EU離脱後の北アイルランドの運営方針を定めた議定書の一部効力停止に踏み切るとの観測が高まっている。北アイルランドでは1960年代から1998年まで続いた北アイルランド紛争が終結した後も、かつての支配勢力で英国との連邦の維持・継続を求めるプロテスタント系住民(ユニオニスト)と、アイルランド民族の一体性を重視するカトリック系住民(ナショナリスト)との間でわだかまりや緊張関係が続いている。英国を構成する4つのカントリーの1つである北アイルランドと1920年代に英国から独立したアイルランドを隔てる約500キロの国境線は、離脱後の英国が唯一陸続きでEU加盟国と国境を接する地域だ。これまでは英国もアイルランドも同じEU加盟国で、EUの共通規則に基づいて経済活動が行われてきた。だが、離脱後の英国とEUには別の規則が適用される。南北アイルランド間で何らかの国境管理をしなくては、EU規則に則っていない物品がEU内に流入する恐れがある。この地域ではかつてアイルランドから北アイルランドのナショナリスト系民兵組織に軍事物資が供給されるのを防ぐため、英国軍が厳しい監視体制を敷き、検問や巡回を行っていた。南北アイルランド間に何らかの国境施設を設ければ、ナショナリストによる襲撃が予想され、ようやく安定を取り戻しつつある北アイルランド和平を脅かしかねない。南北アイルランド間の国境管理の問題は、英国とEU間の離脱協議で最大の関門の1つであった。

強硬離脱派の後押しで首相に就任したジョンソン首相が選択した解決策は、南北アイルランド間で国境管理をするのではなく、アイルランド海で隔てられた北アイルランド(アイルランド島)と英国本土(グレート・ブリテン島)との間で国境検査を行うものだった。離脱後の北アイルランドには引き続きEUルールが適用され、北アイルランドは事実上、英国本土から切り離される。同じ国の中にもかかわらず、北アイルランドと英国本土との物品取引時には各種の検査が必要となり、北アイルランドの輸入業者にはEUの食品安全証明の取得が義務付けられる。コスト高を嫌気して、移行期間終了後の北アイルランドでは英国本土からの物品出荷が滞り、深刻な物不足に直面した。また、北アイルランドを英国から切り離す解決策にユニオニストの不満が高まり、北アイルランド各地でデモや暴動が頻発している。

英国はこうした北アイルランド情勢の緊迫化と混乱発生を受け、離脱後の北アイルランドの運営規則を定めた北アイルランド議定書の抜本的な見直しをEU側に求めている。7月には、①見直し協議が続く間、EU規則の適用を免除する「効力停止期間」を導入する、②北アイルランド経由でEUに流入する恐れがない物品を検査の対象から除外する、③紛争処理時に欧州司法裁判所が関与しない―などの要望書を提出した。EU側は条約改正に相当する議定書の見直しに難色を示すが、北アイルランド経由でEUに流入する恐れがない物品検査の免除や、北アイルランドの輸入業者の事務手続きの簡素化などの運営見直し案を10月に提示している。だが、英国側はEU側の提案を不十分として、議定書の一部効力を一方的に停止する第16条を発動する可能性を再三示唆している。多くのアイルランド系住民を抱え、自身もアイルランドをルーツに持つ米国のバイデン大統領は、アイルランド和平に多大なる関心を寄せている。また、英国のグラスゴーで開かれている第26回気候変動枠組条約締約国会議(COP26)は12日までの予定だが、締約国間の意見集約が難航し、会期が延長される公算が大きい。COP26閉幕後、11月下旬から12月初旬にかけて、英国が第16条発動に踏み切る可能性が高まっている。

英国が第16条発動に踏み切る場合、EU側は英国からの製品に関税を課すなどの報復措置で対抗する可能性を示唆している。他に考えられる報復措置としては、議定書の義務違反の法的措置を開始することや、英国からの物品輸入時の検査を強化することが考えられよう。最悪のケースでは、移行期間終了後の英EU関係を定めた貿易協力協定(TCA)の効力停止も念頭に置いているとされる。この場合、過去の離脱協議で不安視された“合意なき離脱”が遅れて発生することになる。第16条発動は北アイルランド議定書の適用が経済・社会・環境上の重大な困難をもたらす場合に、英EU双方に一方的な発動が認められているセーフガード措置で、それ自体に違法性はない。英国側は現在の北アイルランドの状況が第16条の発動要件を満たすと主張している。ただ、セーフガード措置の適用範囲と期間は、状況を改善するうえで必要なものに限られ、議定書の機能を妨げないことが求められる。議定書に基づく権利と義務の間に不均衡が生じる場合、不均衡を是正するうえで必要な再均衡措置を採ることが認められる。ここにEU側の報復措置の発動余地が生まれる。EU側の報復措置がいきなりTCAの効力停止につながる可能性は低い。まずは英EU双方が設置する合同委員会での協議や、離脱合意に基づく紛争解決手続きが開始されよう。TCAの効力を停止するには、どちらか一方が12ヶ月前に事前に通告することが求められる。TCAが破棄されれば、英EU間の貿易には関税や様々な非関税障壁が発生する。コロナ禍からの経済復興を目指す英EU双方にとって打撃が大きい。万が一、英EU間の協議が暗礁に乗り上げ、TCAの効力停止通告に発展し場合も、効力が停止するまでの12ヶ月の間に、両者が合意なき離脱の回避に向けた協議を継続すると考える方が自然だろう。

以上

田中 理


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田中 理

たなか おさむ

経済調査部 首席エコノミスト(グローバルヘッド)
担当: 海外総括・欧州経済

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