時評『あれから丸10年 東日本大震災に想う~復興特別税はなぜ多くの国民の支持を得たのか~』

特別顧問 佐藤 慎一

2011年3月11日午後2時46分、突然の揺れ、襲いかかる津波。未曽有の大震災。

その時、たまたま私は、政府の「復興構想会議」に関わった。その会議が提言した「復興構想」において最重要視されたのが、「国民全体の連帯と分かち合い」というコンセプトだった。そして、このコンセプトを基礎に、復興費用を国民が少しずつ分かち合う復興特別税が導入された。

一般に、いずれの国民も租税に対しては多少なりとも抵抗感を抱いているものだ。ましてや増税となると多くの反発に晒されるのが世の常。それにも関わらず、復興特別税が過半の国民に受け入れられたのは「何故」か。この「奇跡」に潜む「何故」を探り当てることは、今後の経済社会政策を考えていくときに極めて有益だと思う。

これはあくまで私見だが、国の経済社会政策が国民の「腹」に落ちるか否かは、国民心理の深層で「通奏低音」のように響く「価値観」に大きく規定されていると思う。それでは、その深層に在る価値観とは一体何か。掴みどころのない話だが、あえて私は、「空間軸」、「時間軸」、「ルサンチマン軸」の三つを指摘したいと思う。

まずは「空間軸」。これは、ある事象が起こった時にそれが自分にとって「ウチ」の出来事か、あるいは「ソト」の出来事かという「線引き」の基準である。文化論的に言って、日本人には「ウチ」「ソト」の峻別意識が強い。災害大国・日本では絶えず地震が起こるが、その被災者には誰しも同情を禁じ得ないものの、かといってその全てに「ウチ」なる自分の問題として向き合えているわけではない。だが、東日本大震災はちがった。多くの日本人にとって、被災地域に留まらない我々自身の問題になったのである。「絆」や「連帯」という「共助」の意識が目覚めたし、南海トラフ地震の可能性も考えれば、明日は我が身との意識が生じたのかもしれない。とにかく、過半の国民にとって、あの大震災が「ウチ」なる「自分事」となり、その「当事者」となった。

次に「時間軸」。これは、ある出来事への対応として国が講じる政策の費用を最終的に誰が負担するのかという問題として度々現れる。事象発生の時点では、当座凌ぎに政策費用を赤字国債で調達するとしても、その償還を誰が担うのか。「いまの世代」か「将来の世代」か。数多の日本人論を紐解けば、日本人の深層心理には、現世肯定的志向が強く宿っているとされる。「いま」が一番大切だし、「将来」は不確実であり、「明日は明日の風が吹く」という楽観的な心理である。この見立てに倣えば、この種の赤字国債は、「いまの世代」の問題とは意識されにくいということになる。これは、現在の日本政治でしばしばみられる光景だ。しかし、東日本大震災では違った。この赤字国債の償還を将来に付け回すのではなく、復興特別税という形で、「いまの世代」が責任を持って賄うという判断がなされたのである。これは「奇跡」だが、それだけこの大震災を多くの国民が「いまの自分事」と捉えられたということではないか。

「ルサンチマン軸」は、ある出来事を「自分事」としてそのための政策費用を増税で賄うとした場合、それが国民の間に「ルサンチマン」を生じるか否かという評価軸である。これまた数多の日本人論の受け売りであるが、日本人の深層心理には、歴史的に「有徳思想」(徳(得)の高い人は世の中のために汗をかくべしという考え方)というものが根強い。もしその増税の仕組み方が少しでもこれに抵触することになれば、「ルサンチマン」という強い拒絶反応が生じてしまう。この点、大震災の場合、復興所得税を「所得税額の一定率」と仕組んだことにより、国民一人一人が自らの経済力・負担力に応じた形で社会貢献でき、これが「ルサンチマン」を生じさせないように作用した可能性がある。

要すれば、復興特別税は、この三つの軸が奇跡的な「動的平衡」を成し、これにより過半の国民に受け入れられたのではないか。

復興特別税は、ほんの一例である。焦眉の急であるコロナ対策を含め、経済社会政策が国民の「腹に落ちる」「メイクセンスする」ためには、こうした三つの軸の均衡点を模索するという視点が不可欠ではないか。―これが復興特別税の構築の一翼を担った者としての偽らざる思いである。

特別顧問 佐藤 慎一

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