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名目GDP600兆円は国民を幸せにするか?

~実質消費は減った~

熊野 英生

要旨

日本の名目GDPが近々600兆円に達する見通しだ。果たしてそれが国民生活を幸せにしたのだろうか。安倍元首相が2015年に打ち出したときのGDPから計算すると、9年間で目標達成することになる。しかし、9年前と比較すると、実質消費はマイナスに転じている。その代わりに、肥大化したのは政府支出だった。

目次

9年間で目標達成か

現在、名目GDPが600兆円目前まで来ている。2024年1-3月の名目GDPは、598.1兆円である。早ければ、8月に発表される4-6月の名目GDP(一次速報、季節調整値)で600兆円が達成されるだろう。

このGDP600兆円の目標は、かつて安倍元首相が、2015年9月24日に打ち出したものだ。自民党総裁選挙を前にして、新味のある政策目標を設定し、求心力を維持しようとした経緯がある。安倍政権は、このとき「1億総活躍」と述べていた。

当時の名目GDPを調べると、2015年4-6月538.2兆円と現在よりも約60兆円(59.9兆円)も小さい経済規模であった。つまり、目標の600兆円は、当時の経済規模を約1割(11.5%)膨らませることで、日本が豊かさをある程度享受できるという見立てで立案されたと考えられる。目標達成まで約9年間を要したことになる。

注:当時の記録では、安倍政権は2015年4-6月期の名目GDPが500兆円で、それを2割増の600兆円にすることを狙っていたと考えられる。当時のGDPと現在のGDPは5年に1度の基準改訂があり、金額が嵩上げされた経緯もある。

翻って、現在、その名目GDP600兆円が達成できそうになって、果たして国民生活は豊かになったであろうか。本稿では、改めてその目標設定が正しかったのかどうかを問い直したい。

実質GDPはどうか?

エコノミストの間では、国民の豊かさは、実質GDPで測る方がよいと考えられている。物価上昇分は、購買力から控除されるべきだからである。その実質GDPでみれば、2015年4-6月538.2兆円→2024年1-3月555.5兆円へ+17.3兆円の増加に止まる(図表1)。名目GDP+59.9兆円のうち、+42.6兆円分(=59.9-17.3,寄与度71%)は物価上昇要因なのだ。当時は、あまり物価変動を考慮に入れなかったようだ。

(図表1)名目GDPと実質GDPの推移
(図表1)名目GDPと実質GDPの推移

実は、この物価変動が、現在、600兆円を達成できそうなのに、国民の幸せの実感がないことの原因になっている。GDPのうち家計最終消費に注目すると、2015年に比べて2024年は、実質ベースでマイナスになっている(図表2)。家計の豊かさは減退しているのが実情なのだ。2015年4-6月の実質家計最終消費が293.5兆円で、それが2024年1-3月286.1兆円と▲7.4兆円(▲2.5%)も減っている。最近の実質消費が4四半期連続でマイナスであるように、家計は物価上昇で購買力を実質的に失っているのだ。総額で600兆円であっても、家計だけに焦点を絞れば、成長実感はなくて当然だろう。

(図表2)9年間での名目・実質GDPの増減率
(図表2)9年間での名目・実質GDPの増減率

政府が肥大化した

個人消費が減っているとすれば、何が実質GDPを引っ張っているのか。それは政府最終消費(2015年4-6月から2024年1-3月まで13.7%増)である。民間設備投資も同期間に5.1%増である。個人消費は▲2.5%、住宅投資は▲12.1%といずれも家計部門はマイナスだ。純輸出はほとんど変化していない。名目の純輸出は▲3.0兆円のマイナス寄与、実質の純輸出は+7.0兆円とほとんど無視できる変化である。

皮肉なことを言えば、歴代政権が政府予算を膨らませて、政府最終消費・公的資本形成を増やした。官の肥大化にもみえる。これは、名目GDPにも言えることだ。政府最終消費・公的資本形成も名目値の伸び率は、それぞれ18.4%、21.6%と突出している。安倍政権がGDP600兆円を打ち上げて、その後、政府支出が大幅に伸びて、代わりに実質の家計消費支出が減ったというのは、何という矛盾だろうか。

物価上昇では意味がない

デフレの時代には、物価のマイナスは害悪が大きいので、人為的にインフレにすれば幸せになると勘違いする人が多かった。本当は、デフレでもインフレでも害悪は大きく、物価は安定している方がよい。当時の政治家の中には、それに気付いていなかった人もいた。残念ながら、物価2%の目標は存続し、日銀に金融緩和状態を継続させている。植田総裁は、物価2%以上という目標は過大だと知りながらも、その撤廃がすぐには難しいので、時間をかけて金利正常化を進めている。日本には、一度設定されれば、目標が間違っていてもそのまま存続する悪しき習慣がある。名目GDP600兆円も同じだ。実質消費がこの9年間に減少しているのに、それが放置されて、目標達成のようなことになっている。

本来ならば、実質消費支出を増やすことが、国民の幸せを増進するために優先されるべきであった。具体的に言えば、実質賃金を上げて、それによって実質消費を増やす。実質賃金を上げるためには、労働生産性を高めることが必要になる。

労働生産性を高める方法

現在、賃上げの裾野が中小企業まで広がれば、家計の物価負担が軽減されると信じられている。以前の経済学の発想では、物価上昇と賃金上昇はほぼパラレルに動くので、賃上げで生活の負担感が軽減されるというのは幻想だとなる。この点は、多くの良識派の学者たちが口をつぐんでいることだ。

正しいのは、労働生産性の上昇を通じて、物価上昇圧力を抑えつつ、賃上げを進めることだ。そのための労働生産性の上昇は、政府の差配によって可能なものではなく、民間企業の競争促進によって結果的に得られるものだ。敢えて、政府が音頭を取ろうとすれば、テクノロジー活用で人手不足を緩和する手段を身近に提供することや、設備投資促進で資本集約度を上げる方法がある。人気取りを狙った財政出動では、労働生産性は容易に上がらない。政府は、地道に労働生産性が上がるような民間活動の支援を推進するしかない。

今、名目GDP600兆円が達成目前まで来ているからこそ、政策の評価軸を「大きいことはよいことだ」という思考から、「1人当たり労働生産性を高める」発想へとシフトさせる必要がある。物価上昇による名目GDPの肥大化だけでは、国民は幸せになれない。

熊野 英生


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熊野 英生

くまの ひでお

経済調査部 首席エコノミスト
担当: 金融政策、財政政策、金融市場、経済統計

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