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植田総裁が就任から1年

~賞賛すべき点と気懸かりな課題~

熊野 英生

要旨

就任から丁度1年が過ぎようとしている。この1年間の評価は、マイナス金利解除ができたことで高まった。しかし、まだ課題は多く残っている。目先、「緩和的な金融環境が継続する」方針をどう修正するのか、金利正常化の進め方をどう変化させるかが難題だ。就任1年では「まだ評価は道半ば」とみた方がよい。

春闘が突破口だった

4月9日で植田和男総裁が就任してから、丁度1年となる。そこで、節目のタイミングなので、就任後の1年間を振り返りたい。

まず、後講釈になるが、任期5年のうち僅か約1年でマイナス金利解除ができたことは、賞賛に値する。しかも、解除への批判はほとんどなく、「無風」と評する人もいた。デフレ脱却の正否に関する細かい技術論にこだわらず、春闘で高い賃上げ率が実現しそうなことの1点に集中して解除を決めたことは、上手だった。学者出身ということよりも、そうしたロジックで反対論を封じられると読んだところで、勝負勘が冴えたと思う。これは、サイエンスよりもアート(職人的個人技)に思える。勝負士の側面があった。

その一方で、緩和解除に当たって、「緩和的な金融環境が継続する」とアナウンスしたところは、まだ評価を下せない。なぜならば、薬が効き過ぎて、過剰な円安圧力を生んでいるからだ。もっと円高圧力が顕在化していた方が輸入物価上昇を抑えて、家計などの負担を小さくできた可能性はある。

1ドル152円を超えるような過剰な円安が進んでしまうと、今度は「緩和的な金融環境が継続する」方針を修正して、追加利上げの時期を早めなくてはいけなくなる。そうなると、金利正常化が無難に進んでいるとは言いにくくなる。マイナス金利解除は、「まだ評価は道半ば」とみた方がよい。よく考えると、僅か約1年でマイナス金利解除したことには、まだ課題を残しているのが実情だ。

YCC撤廃の評価

植田総裁の予想以上の成果として挙げたいのは、一気にYCC撤廃を決めたところだ。筆者はもっと漸進的に進めると考えていた。ここをリセットできたことは、今後の政策運営に大きな自由度を与える。

考えたいのは、なぜ一気にYCCを撤廃できたのかという点だ。それは、長期金利の変動幅の上限を2022年12月に0.50%に引き上げて、さらに2023年7月にそれを1.00%にし、その後10月に1.00%を目途にして曖昧化した。段階的に、長期金利コントロールを市場の需給に任せて、上昇圧力をガス抜きして行った。0.50%の引き上げは前任の黒田総裁だが、後を継いだ植田総裁は、こちらの作業に時間をかけた。1.00%を目途にして、事実上、長期金利コントロールを手放したところは、まさに「出口戦略」で問題視されそうな金利上昇リスクを意識しての対応策だった。これは、マイナス金利解除に移行する上での布石だった。その布石が有効に効いたから、YCC撤廃も同時にできた。上手なプロセス管理だったと思う。

細かな市場との対話で筆者が印象的だったのは、総裁会見で記者から1.00%の上限のことを尋ねられたとき、「(自分は)1.00%まで長期金利は上がらないと思う」と相場観を述べたことだった。金利上昇はないですよと伝えたつもりだろう。筆者は聞いていて、そうなのかと自然に納得してしまった。日銀総裁の言葉には何か神通力があると感じたのはその瞬間だった。事実、長期金利は現在まで1.00%を超えずに推移している。

記者会見の印象

黒田総裁と比べて、植田総裁になって大幅に改善したのは、記者会見におけるコミュニケーションだろう。丁寧に各質問に答えて、好感が持てる。例えば、植田総裁はしばしば質問者に対して、「2番目の質問は何でしたか?」と聞き直す場面を見ることがある。これは、質問されたことに逐一答えようとしているからだ。こうした姿勢がないと、絶対にそのような聞き直しは行われない。従来の、記者会見では、質問がいくつか無視される場面もみてきた。植田総裁は、ほとんどそうしたことはなく、なるべく丁寧に答えようと努めている。

市場とのコミュニケーション

日銀法改正後の日銀総裁には、市場とのコミュニケーション能力が求められる。審議委員から2度目の就任とはいえ、学者出身の植田総裁には、そこが未知数だった。1年が過ぎてみて、市場とのコミュニケーションはそこそこの及第点だったと思える。繰り返しになるが、出口戦略における長期金利の跳ね上がりが起こらずに済んだからだ。

しかし、子細にみると、まだ課題を残していると思える。それは、先々の追加利上げを市場に織り込ませることをほとんどやっていないからである。通常、金融政策は緩和局面ではサプライズを起こして、政策効果を大きく見せるとされる。反対に、引き締め局面では、先々の見通しを市場に織り込ませてから波乱を起こさないように配慮するとされる。しかし、植田総裁は、マイナス金利解除の時も明示的に予告したり、あまり考えるヒントを投げかけるようなこともしなかった。ここは、将来の追加利上げで同じことをやれば、市場心理が疑心暗鬼になる可能性がある点でやや心配だ。

植田総裁にも事情はあるのだろう。追加利上げの時間軸を市場に織り込ませると、政治的な反発が生じることがあり得る。その点を避けたいからだろう。しかし、今後、日銀が追加利上げに動こうとすると、それが唐突に見えて、株価が下落したり、円高が急伸するリスクは残る。それをどう考えるべきだろうか。

3月会合は、春闘の集中回答日から間を置かずに、マイナス金利解除が決定された。唐突であったが、「緩和的な金融環境が継続する」方針が有効だったという見方はできる。しかし、今後、追加利上げをしようとするときに3月会合と同じように事前のアナウンスが効く保証はどこにもない。追加利上げの手前では、市場心理が不安定化してしまう弊害をどうするかは現在は見えてこない。

実体経済の悪化がなくてラッキー

植田総裁が幸運だったのは、マイナス金利解除で実体経済が悪化していないことだ。2023年4月から1年間は景気拡大期が続いている。これは追い風だ。もしも、+0.1%の利上げで景気悪化が起これば、植田批判も巻き起こっただろう。+0.1%の利上げでは、不確実性はあるものの、実体的影響はほとんどなかった。

逆に言えば、今後の金利正常化では実体経済の悪化も起こり得る。政策金利を現在の0~0.1%を次に0.25%に引き上げて、さらに0.50%、0.75%と段階的に上げていくと、そうした引き締め局面では、中小企業の破綻などの実体的悪影響が顕在化する可能性もあろう。そのときは、金利正常化に対する批判は断然強くなる。それを消化しながら、植田総裁は任期の後4年間を過ごしていかなくてはならない。本当に、歴史的な評価にさらされるのは、就任後1年のトラックレコードではなく、退任までの残り4年間の方であろう。植田総裁の手腕を評価するには、やはり時期尚早と言える。

熊野 英生


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